【選手権100回大会企画47】沖縄の高校野球
沖縄県勢が初めて甲子園に出場したのは、まだ米軍統治下にあった1958年の第40回大会だった。
記念大会として各都道府県に、沖縄を加えた計47代表が出場。沖縄からは首里が県勢として初めて出場した。
62年の第44回大会では、沖縄(現沖縄尚学)が県勢として自力で初めての甲子園出場を果たした。エース・安仁屋宗八(元広島など)が活躍。沖縄予選、宮崎県勢との第2次予選を突破した。
さらに63年の第45回大会では、首里が日大山形を破って県勢の甲子園初勝利。戦後の沖縄にとって明るいニュースは、めざましい躍進へとつながった。
68年の第50回大会は、興南が4強へ進出。主将で4番の我喜屋優外野手を中心に旋風を巻き起こした。
72年に本土復帰を果たした後は、栽弘義監督が沖縄の野球を進化させた。豊見城では76年の第58回大会から3年連続の8強へ進出。
76年はエース・赤嶺賢勇(元巨人)が快投を見せた。準々決勝は星稜の小松辰雄(元中日)と投げ合って惜敗したが、全国から注目を浴びた。77、78年は石嶺和彦(元阪急など)が大活躍を見せた。
栽監督は沖縄水産に移ると、84年の第66回大会から5年連続で出場。90年の第73回大会では県勢初の決勝へ導いた。しかし、決勝は天理に0-1で惜敗だった。
日本一を目指した翌91年の第74回大会は、大野倫(元巨人など)が右肘を痛めた状態で奮闘。決勝まで勝ち上がったが、4連投となった決勝では大阪桐蔭に屈し、2年連続準優勝に終わった。
大野は大会後に右肘の骨折が判明。投手生命を絶たれ、選手の健康管理が議論されるきっかけとなっている。
ただ、栽監督によって沖縄が、全国レベルに引き上げられた事実は揺るがない。
99年センバツでは、沖縄尚学が春夏通じて初の甲子園で優勝を果たした。
2006年の第88回大会では、石垣島の八重山商工が離島では初の春夏連続出場を果たす。最速151キロをマークしたエース・大嶺祐太(ロッテ)を中心に2勝を挙げた。
08年の第90回大会では、浦添商が同年センバツV・沖縄尚学を破って甲子園に出場。4強へまで進んだ。
そして、10年の第92回大会で、興南が県勢として夏の甲子園初優勝を果たした。
68年に主将として同校を4強へ導いた我喜屋監督が率い、エース・島袋洋奨(ソフトバンク)が奮闘を見せた。
準決勝・報徳学園戦は、5点差を逆転する劇的な勝ち上がりを見せ、史上6校目の春夏連覇を果たした。
沖縄県勢は春夏通算4度の甲子園制覇を果たしている。夏の甲子園の勝率・585は九州勢1位。今や全国屈指の激戦区となっている。
◆沖縄県勢の夏の甲子園アラカルト
【出場回数ベスト5】
1位・興南11回
2位・沖縄水産9回
3位・沖縄尚学7回
4位・浦添商4回
5位・豊見城3回
【勝利数ベスト5】
1位・沖縄水産20勝
2位・興南18勝
3位・浦添商10勝
4位・沖縄尚学7勝
5位・豊見城6勝
【最高成績】
優勝・興南(2010年)
【通算成績】
118試合
69勝49敗
勝率・585
【主な監督】
栽弘義…豊見城、沖縄水産などの元監督。両校で春夏通算17回の甲子園へ出場し、通算27勝17敗。
比屋根吉信…元興南監督。80年代に興南を強豪へ育て、甲子園へ春夏通算6回出場。のちに京大の監督を務め、同校初のプロとなる田中英祐(元ロッテ)を育てた。
金城孝夫…元沖縄尚学監督で、現長崎日大監督。高校時代は豊見城で栽監督の教えを受け、99年センバツで沖縄勢として初の甲子園優勝を果たした。
我喜屋優…興南監督。10年に史上6校目の春夏連覇を達成。沖縄勢として夏の甲子園初優勝を果たした。
比嘉公也…沖縄尚学監督。99年はエースとして、08年は監督としてセンバツを制した。
◆デイリー独断!沖縄の高校を卒業したプロ野球選手ベストナイン
【先発】沖縄(現沖縄尚学)・安仁屋宗八(元広島)
【中継ぎ】西原・又吉克樹(中日)
【抑え】興南・友利結(元中日)
【捕手】沖縄尚学・嶺井博希(DeNA)
【一塁手】中部商・山川穂高(西武)
【二塁手】興南・大城滉二(オリックス)
【三塁手】興南・渡真利克則(元ダイエー)
【遊撃手】沖縄・真喜志康永(元近鉄)
【外野手】豊見城・石嶺和彦(元阪神)、沖縄尚学・比屋根渉(ヤクルト)、沖縄尚学・伊志嶺翔大(ロッテ)
【指名打者】沖縄水産・大野倫(元ダイエー)
(ポジションはプロでの登録守備位置、所属は現役の最終所属)