【75】手袋の使用解禁 経済的負担を軽減したい佐伯達夫元会長の信念
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
僕の高校時代はもちろん木製バットで、練習は竹バットか合板バットを使っていた。大阪・明星高校が優勝した第45回選手権大会当時だった。木製バットはシート打撃か試合の時だけだ。昼休みに部室でやる作業があった。肉屋さんから牛の骨をもらってきて木製バットの打球部をこする。牛乳瓶でこすったこともあった。多分バットの木目が剥離するのを防止するためだったと思う。
冬の練習で竹バットを使う時は心してかからねばならない。少しでも芯を外すと手が痺(しび)れて次の投球に対応できないこともあった。片手だけ軍手をはめたこともあったが滑るので集中できない。
革の手袋が市販されるようになったのはいつ頃だったろうか。多分1960年代後半ではなかったかと思う。
高校野球で金属製バットが登場したのは74年からだ。野球はお金がかかりすぎる、ということを当時の佐伯達夫会長はとても気にされていた。耐久性のある金属製バットは高校野球に経済的な効果をもたらした。
一方「高校野球には手袋は不要」と試合での使用は認めなかった。当初の金属製バットはグリップ部にラバーが巻かれていた。のちに革テープに変わったこともあり痺れはあまりないし、手袋はなくても対応できたということもある。
そんな頃、当時の文部省の担当課から事務局に電話がかかった。用件は「なぜ高校野球は手袋の使用を認めないのか」だった。
僕は電話口で「手袋がなくても打撃はできる」、「金属製バットにはゴムが巻いてある」などと応答していると、後ろの席から佐伯さんが「誰からの電話か」といぶかって聞かれた。
送話口をふさいで「文部省からで、なぜ手袋の使用を認めないのかと聞いてきています」と説明すると、「かしなはれ」と電話を取り上げ「もしもし佐伯です。あんた誰?手袋のお金は誰が払うのか?おかしな電話をしてくるものではない」とガチャンと切ってしまわれた。横にいて背筋が伸びた。
あとで聞いたところによると当時の総理大臣の出身地が革製品の産地だったので陳情があったとか。時代が下って97年のオフに手袋の使用解禁が決まった。
その後高校野球でも打撃用マシンが普及し、打撃練習の機会が格段に多くなった。1日に何百回も素振りをする。当然部員たちの手は豆だらけになっている。したがって普段の練習でもほとんどの選手が手袋を使っていた。手袋は3週間ぐらいで擦り切れてしまう。当時でも片手で2千円くらいはしていたので両手だと結構お金がかかる。
スポーツメーカーは、PR効果を狙ってプロ野球の主力選手には無償で提供、手の甲に商標が表示されていた。グリップを固めるためにスプレーを使うとすぐに擦り切れてしまう。
そんな現場を見て、当時の朝日新聞高校野球事務局長の土原剛さん(2003年逝去)が、「田名部君、手袋の禁止理由は?」と尋ねられた。佐伯さんの時のことを思い出しながら「経費の問題です」と答えた。すると土原さんは、「生徒たちは普段から手袋を使っている。試合だけ禁止しても費用の節減にはならんで。豆だらけの手で試合をさせるのはかわいそうや」と指摘された。
もっともな話で、早速審判規則委員会で検討、色を白か黒一色とすること、商標は大きさを決め、革と同色で目立たないものとする、さらに高価なものにならないようメーカーに申し入れることを条件に許可した。
のちにメーカー担当者から、「手袋は優良商品です。毎年新企画を考える必要もなく安定して定番が売れます」という。色と価格帯が抑えられているからだという。