【79】縁の不思議 手書きだからこそ伝わり、心に残る
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
佐伯達夫会長の思い出の一つにとにかく筆まめだったことがある。いつも絵葉書を持ち歩き、出張先で会った方に寸評を添えて手紙を書いておられた。
電話よりはがきで伝える方が心に残るように思う。一枚のはがきがその後の人脈となるのは明らかだ。
人脈作りといえば貴重な縁となった出来事を紹介したい。
連盟事務局で一番困るのは昔の資料を尋ねられることだ。試合記録は新聞記事やその後の大会史でおよその調べがつく。しかし、式典の詳細資料はない。
ある時、式典で優勝旗の授与のとき流される曲「勇者は還りぬ」がいつから採用されたかと問い合わせがあった。
電話の主は「ツジムラです」と落ち着いた男性の声。あまりない名前なので「ツジムラさんは文部省に居られた辻村さんですか」と聞くと「そうです。何故分かります?」と聞かれた。
毎年全国大会には文部省の幹部も役員に委嘱、いつもその封筒書きをしていたので思い当たった。元初等中等教育局長をされていた辻村哲夫さんだった。当時国立近代美術館の館長をされており、ある雑誌の随想のテーマにしたいので調べているという。
こうした質問に「分かりません」とは言えないところが辛いところだ。暫く時間をくださいと電話を切った。
連盟は戦後に設立されたので資料はない。
主催新聞社の資料室に行って当日の紙面を繰って調べるしかない。一週間ほど調べた。夏の第1回大会は大正4年で、白装束の軍楽隊が演奏したとあるが曲目までの記述はない。「勇者は還りぬ」とあるのは昭和26年の第33回大会で平安高校(現龍谷大平安)が2度目の優勝を遂げたときだった。「ヘンデルのオラトリオ『勇者は還りぬ』の吹奏が二回、重々しく響いた」とあった。
選抜大会ではやはり曲目までの記述はない。結局、曲目は不明ながら演奏団体の変遷を調べ、手紙で報告した。
それから3年後、辻村さんが受診した整形外科の主治医は僕もスポーツ障害予防で旧知のドクターだった。診察中、ふと高校野球の話題になり僕の名前が出たそうだ。辻村さんは以前の調査のお礼が言いたいので上京の折には美術館を訪ねるよう伝えて欲しいと医師に要請された。
それでお目にかかったのが、特待生問題が起きる直前の2月。以後特待生問題の有識者会議の委員、さらに学生野球憲章の改正委員、そして今は日本学生野球協会審査室長を務めていただいている。偶然が重なった縁としか思えない。