【81】大事にしたい日韓交流 よきライバルが互いを育て友好を深める
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
佐伯達夫さん(元高野連会長)は早稲田大学在学中、母校の市岡中学にもよく指導に行かれていたが、同じ大阪市内の明星中学にも指導に出かけたという。周囲から「佐伯君はなぜライバル校に行くのか」といぶかる声があったそうだ。
佐伯さんは「母校を強くするにはライバルを強くすることも大切だ」と言って憚らなかったそうだ。
同じ意図で佐伯さんは韓国の野球振興に力を注がれた。
1960年11月に、戦前戦後を通じ初めて韓国高校チームの来日が実現した。
ソウル特別市にある京東高校で、のちに日本のプロ野球でも活躍した白仁天選手らがいた。各地で8試合を行い、3勝2敗3分けの成績を収めた。
この交流で京東高校生徒の礼儀正しさが好感を呼んだと資料に残されている。日本からは62年9月に大阪府選抜チームが初めて韓国を訪問した。日本の12勝2敗と、まだ両国にはレベルの差があった。
当時も必ずしも両国の国民感情は決して良くなく、高校野球での親善交流に大きな期待が寄せられた。その後、毎年の交流により60年代後半になって、韓国もメキメキ力をつけてきた。
70年の第52回選手権大会で優勝した東海大相模高校はじめ、全日本選抜チームが9回にわたって派遣された。試合会場の東大門球場は毎回あふれんばかりの観衆が詰め、大いに盛り上がった。
僕が連盟に入った翌年の69年、来日した慶北地区選抜チームに帯同、世話役をさせてもらった。チームは日本到着後、完成間もない大阪・江戸堀の野球会館に宿泊、親善交流に役立てればと夕食後、童謡「夕焼け小焼け」と「すずめの学校」をローマ字で書いて選手らに教えた。
役員に通訳してもらってのレッスンだったが、ふと困ったのは「小焼け」の日本訳だ。後日、日が沈んでからのしばらくのほのかな明かりと知った。
「すずめの学校」は輪唱も練習した。愛媛ではこの年優勝した松山商と対戦、九回1死までエース南宇植投手は無四球無得点で抑えていたが、西本正夫選手にサヨナラ本塁打を喫し惜敗した。
チームの最後の試合となった山口で、試合後の交歓会では選手たちが練習した童謡を合唱してくれた。帰国後、南宇植選手が韓国語で礼状をくれた。なんと宛名は「日本国、日本高校野球連盟、田名部和裕様」で届いた。感動した。
日韓関係が思わしくない今、日韓交流を体験した青年たちに真の友人関係を築いてほしいと思わずにおられない。