【84】プロアマ懸け橋の恩人 忘れられない故田口周ヤクルト元社長の激励
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
学生野球とプロ野球との関係改善が進んだ今、初期の功労者として忘れてはいけない方のお話を書いておきたい。
元ヤクルトスワローズ社長の田口周(いたる)さんのことだ。田口さんは、日大三~日大時代、一塁手、投手として活躍、卒業後、スポーツ記者を経て、1960年に、母校日大三の監督に就任した。2年後の第34回選抜大会で、倍賞明選手らを擁し、準優勝を遂げている。
田口さんはその指導力を買われてプロ野球選手として実績はないが、68年にサンケイアトムズ(現ヤクルト)の2軍監督を務めた。その後はフロントに入り、85年から球団代表を務められた。以後、野村克也監督の招聘などで黄金期を築いた。
この年(85年)の4月に初めてプロアマ合同の円卓会議「全日本野球会議」が創設された。田口さんも各球団代表として参画している。
田口さんとはその後ドラフト制度の在り方について何度かお会いした。
そんな時代のことだが、球団がある新橋のビル地下のお店にプロ野球コミッショナー事務局、社会人、学生野球事務局のスタッフを招いてくださった。
「これからの時代、野球界の現場を預かるスタッフが密接に情報交換して後々プロアマ関係の改善に努めてほしい」という趣旨だった。当時は事務レベルでの会合の機会は全くなかった。
僕もこの席でNPBの数名のスタッフと初めて名刺交換をした。
その後プロアマ合同で主催した指導者講習会(BCC)が95年から始まるなど頻繁にNPBのスタッフとも連絡を取り合うこととなった。
田口さんは学生野球の指導も経験されていたので、プロ側の一方的な要求だけでなく、学生側の立場も考慮したお話しぶりだったことが印象に残っている。
高校野球では94年からU18のアジア大会が始まり、国際化への対応を急いでいた。そこで97年2月に、他野球団体の反対を押し切ってボールカウントでボールを先にコールする改革を打ち出した。
すると新聞発表の翌日朝、田口さんから電話があった。ヤクルトの春季キャンプ先のアリゾナからの国際電話だった。
「プロ野球が先にやらないといけないのによく踏み切ったね」と激励の言葉をいただいた。田口さんは2006年に73歳で他界された。
現在プロ野球関係者と学生野球資格回復研修会を実施しているが、現在のプロ野球OBクラブ理事長は、第34回選抜大会の決勝戦で田口さんが対戦した作新学院の八木沢荘六さんで、不思議な縁を感じる。