【100】高校野球を愛する方々と出会いに感謝 選手権に合わせ100回で一区切り
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
田名部和裕氏の、足かけ5年にわたる連載が100回を迎えた。日本高校野球連盟事務局長として長年、まさにその中枢に身を置いて、高校野球の発展に尽くしてきた半世紀を語っていただいたものだ。夏の選手権も今年が第100回。このタイミングでいったん、連載は区切りとする。
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2014年の末から始めたこの連載が、100回の節目を迎えることができた。最初は担当記者からの依頼を受け、翌春の第88回選抜大会までのつもりで書き始めた。
担当記者の「もう少し続けてください」の言葉を真に受けて、半世紀を振り返って記憶に残る事例を順次紹介させていただいた。
在任中の数々の改革には“見えない赤い糸”でつながった人脈によるところが大きい。この人脈は、日ごろ野球とは直接関係のなかった科学者、医師、理学療法士、弁護士など多業種の皆さんとの出会いがあった。
これらの皆さんは、日ごろから高校野球に少なからず関心を持たれていた方々だ。そしてその専門分野で、高校野球に抱いていた危惧や懸念をお聞きし、連盟として真正面から取り組むことができたのは大きな成果だった。
ぼくの在任中の大きな出来事を年代別に挙げてみると次のようなものがある。最初は佐伯達夫会長の晩年に取り組んだ金属製バットの導入だ。
製品安全協会安全管理委員長で、元芝浦工業大学学長の大本修先生や、東京大学工学部の小林肇先生らに研究いただいた。難しい物理の法則を我々にもやさしく解説いただいた。安全性の確保と経済性に富んだ金属製バットが開発された。高校野球の以後40年間にわたる大きな成果になった。
次は、選手の健康管理で、大阪大学医学部の越智隆弘教授(現大阪警察病院院長)をはじめ整形外科のドクターと理学療法士の皆さんだ。1993年から始めた投手の関節機能検査は、他の競技団体に先駆けたシステムで、スポーツ障害予防に取り組む端緒となった。
後に延長回数の短縮、準々決勝後の休養日の設定、そして今年から実施するタイブレーク制の導入に発展した。選手の障害予防は、大会開催時だけでなく、平素の練習時からの体調管理がまだ課題として残っている。
3つ目は95年の阪神・淡路大震災がある。先日も北大阪で激震があったが、未曽有の大災害に立ちすくんだ記憶がある。2カ月後の選抜大会が無事開催できたのは、兵庫県警と大阪府警の交通規制や雑踏警備の担当官が親身に対応してくれたためであり、今も忘れられない。
また全国の高野連理事長OBらが献身的に出場校のサポートをしてくれた。このサポート体制は今も続いている。
チームは、電車で球場入りとなったため、震災時から大会本部で飲料水を準備した。それがその後の熱中症対策につながった。震災を契機に導入した抽選日の前倒しや球場周辺対策など数々の改革が今も生きている。
その次は国際化だ。98年の第3回アジアAAA野球大会大阪開催を前に「国際化」に取り組んだ。手始めに審判員のユニホームの国際仕様変更と、球審のチェストプロテクター導入を採用した。
国際化の最大の課題は、ボールカウントのコールの変更だ。なぜ日本だけストライクを先にコールするのか。球史に詳しい作家の佐山和夫さんに明治時代にさかのぼって調べてもらったが、判然としない。
三輪武審判規則委員長が、野球規則委員会でコールの変更を提案したが「日本の野球文化を変えるな」と古参の委員から猛反発を受けた。
しかし、木嶋一黄審判委員ら若手が、「高校野球だけでもやりましょう」と97年の第69回選抜大会からボールを先にコールする変更に踏み切った。NHKがBSでMLBの中継を始めると、ボールを先にコールする方式が徐々に浸透した。ついに10年のシーズンからプロ野球もコールを変更した。
折からリニューアルが完成した阪神甲子園球場のスコアボードもBSOに変わった。実に13年かかった。
紙幅がなくなったが、このほか学生野球憲章の改正がある。
特待生問題を契機に、60年ぶりに見直されたが、この検討委員会のメンバー構成は、整形外科関連の運動器の健康・日本協会で一緒になった元東京厚生年金病院整形外科の武藤芳照先生(現東京大学名誉教授)の人脈に負うところが大きい。
スポーツ法学会の望月浩一郎弁護士、元文部省初中教育局長の辻村哲夫先生らは武藤先生つながりの方々で、現在日本学生野球協会審査室員を務めていただいている。武藤先生ご自身も先頃同協会の理事に就任された。
このほか、プロアマ関係改善に熱心に取り組まれた脇村春夫会長、故人となった川島広守コミッショナー、プロ野球選手会の松原徹事務局長の尽力に感謝したい。
ぼくは、3年前から日本高野連の連盟史に取り組んでいる。50年間連盟にいても知らないことがたくさんあった。歴史に学ぶことが多いのを実感している。
今や佐伯さん、牧野直隆さんと直接面識のあった野球人は少なくなった。顧みると厳格だった佐伯さんのあと、柔軟な牧野さんだったことがさまざまな改革につながった。でもそれは佐伯さんのき然とした姿勢が多くの赤い糸をたぐり寄せていたからと感じる。実感としては改革するより守り抜く方が数倍難しい高校野球だった。見えない赤い糸で守られた高校野球の不思議に感謝したい。=おわり
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田名部和裕(たなべ・かずひろ)1946年2月27日生まれ、72歳。神戸市出身。鷹匠中では内野手。葺合高で野球部マネジャーとなり、関大でも硬式野球部の主務を務めた。卒業後、日本高野連事務局入り。佐伯達夫氏から八田英二氏まで5代の会長を支える。93年に事務局長となり、2005年に参事に就任。10年から理事。21世紀枠導入、プロアマ健全化、日本学生野球憲章の抜本的改正など多くの改革に尽力した。