湯浅の母・衣子さんからの手紙 「絶対WBCに出る!」から14年 信じた道進み誇りに思ってるよ
「カーネクスト 2023 WBC1次ラウンド 東京プール、日本代表8-1中国代表」(9日、東京ドーム)
3点リードの八回から登板した湯浅京己投手(23)が3者連続三振の圧巻投球をみせた。初めてとなるWBCのマウンドで、国際大会ならではの独特な緊張感を力に変えた衝撃の16球。幼少時の「絶対にWBCに出る!」という誓いを有言実行した愛息に向けて母の衣子さんが手紙を送った。
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衣子さんはどんな時も、湯浅の一番の“味方”であり続けた。それは、今でも変わらない。愛息が信じた道を応援することこそが、最大の後押しになると信じているという。
「小さい頃から京己には、無理だとかできないって言葉は絶対に使いませんでした。可能性を信じていたし、その可能性をできる限り、広げてあげたいと思っていましたね」
中学で硬式の伊勢志摩ボーイズ、高校で親元を離れて福島・聖光学院に進学した時も本人の意思を尊重した。自分が挑戦したい道を突き進んでほしい-。その一心からだった。
「親の都合や遠いからとかいう理由で、選択肢を狭めたり、諦めたりしてほしくなかったんです。本人が決めた道を最大限、応援して協力するのが私たちの役目だと思っていたし、今でもそう思っています。どんな時も情報を提供したり、共有はしたりするけれど、最終的には京己が決めればいいんだよ!!やりたいことをどんどんやればいいんだよ!!というスタンスでしたね」
高校入学後は1年冬に成長痛からの腰痛に見舞われ、「帰りたい」と泣きながら湯浅から連絡があったという。「限界が来ているかな…」。そう衣子さんは推察していたが「野球をやりたいんだよね、ゆっくり考えたらいいよ」と声をかけ、本人が納得する答えにたどり着く時を待った。
翌日、湯浅から「弱音を吐いてゴメン」と連絡があり、心から野球に向き合う日々が再び始まった。ここからBC富山を経て、阪神に入団。19年~20年にかけて腰椎分離症を3回発症し、衣子さんとの電話で涙をこぼす瞬間もあった。それでも、大好きな野球を諦めず、22年に最優秀中継ぎのタイトルを獲得するなど花が開いた。「『プロで活躍して世界で通用する選手になりたい』とずっと言っていたので、そこに向かって進んでいるなと思いますね」とその姿を温かく見守っている。
苦労人という印象も強く、メディアでも「紆余(うよ)曲折」と形容されることが多い。しかし、衣子さんはここまでのプロセスを前向きに捉えている。
「野球ができなくて辛かったり、悔しかったりとかいろんな思いがあったと思うんですけど、回り道に見えることもその時、その時でいろんな方との出会いがあったり、いただいた言葉とか、あの子の中で学べたこともすごく大きいと思います。そういう経験が、今の京己に絶対に生きているというか、糧になってやってこられた部分があると思います」
「己の京(都)を築く」という両親からの思いが込められ、京都の京と己の字を取って「京己」と名付けられた。京には高い所という意味があり「高い所まで駆け上がってほしい」という願いと、いろはかるたの最後の文字が京で「最後まで突き進んでほしい」という二つの理由から名付けた大切な名前だ。「これからも自分の好きなことで、道を究めていってほしいです」。世界で通用する投手になりたいと思いをはせる湯浅の夢を、これからも全力で応援する。