64年赤い炎を灯した男 五輪再び東京へ
2020年夏季五輪の開催都市は、日本時間7日夜から8日未明にアルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれる国際オリンピック委員会(IOC)総会で決定する。その運命の日を目前に、2度目の東京開催を心待ちにしている男がいる。それは前回1964年大会で最終聖火ランナーを務めた坂井義則氏(68)。当時19歳の大学生は国立競技場の7万余の大観衆の中、堂々と聖火点火の重責を果たした。あれから約50年、坂井氏が自らの貴重な経験を振り返るとともに、改めて五輪の素晴らしさを説いた。
その日、坂井は世界一の特等席に立っていた。それは国立競技場の聖火台の横。前日降った雨で空気は澄み渡り、秋晴れの空と競技場の緑の芝、トラックのエンジのコントラストが鮮やかだ。まだ新宿高層ビル群がない時代で、遠く秩父連山も望めた。
「空の青、芝の緑、それに参加国選手のカラフルなユニホームがきれいでね。一番いい席だった。あんな光景を見たのは後にも先にもあの時だけですよ」
点火の場面は鮮明に記憶している。待機していた係員がプロパンガスのボンベを開けるタイミングを見計らってトーチを傾ける。太平洋戦争の敗戦からわずか19年。五輪を開催するまでに復興を遂げた新生日本を象徴する、赤く強い炎が燃え上がった。坂井は観客の注目が離れた瞬間、準備されていたバケツの水でトーチの火を消した。
「実はぶっつけ本番だった。リハーサルは1、2回やったけど、その時は聖火台の右に立って左手で点火。何か理由があって、本番は左に立って右手で点火だった。とにかくタイミングよく点火する。それだけ考えていましたね」
最終聖火ランナー決定までには過熱する報道合戦にも巻き込まれた。坂井は陸上400メートルで東京五輪出場を目指したが、無念の代表落ち。失意のまま広島県三次市の自宅に戻ると、坂井が最終聖火ランナーの有力候補に挙がっていることを知った報道各社が、連日のように訪ねてきた。
「ある新聞社は僕を連れ出して汽車に乗せ、明石駅で降ろして、社有のセスナで東京へ運んだ。それから都内のホテルに缶詰めにされて…。それほど最終聖火ランナー決定の特ダネが欲しかったんでしょうね」
大人不信に陥った19歳の青年は、郷里に戻ると映画館に飛び込んだ。大人に会いたくないと思ったからだった。だが、そこでも館内放送で自宅に戻るよう促された。
「宮本武蔵を見ていたらね。『坂井さん、急いで自宅へお戻りください』って。戻ったら組織委員会から連絡があって、すぐに東京へ来いという。そこで事務総長から正式に決まったから受けてくれと言われたんです」
坂井は1945年8月6日、広島に原爆が投下された1時間半後に三次市で生まれた。爆心地からは70キロ離れており、被爆者ではないが、最終聖火ランナーに決まった背景には、この事実が大きいといわれている。
「いわゆる“アトミックボーイ”が復興の象徴なら話としてはわかりやすいからね。落ちたのは広島で僕は三次の生まれ。全然関係ないから最初はものすごく反発もしました。でも、受けました。1億国民が一丸となってやっている時に、僕一人そっぽ向いてああだこうだ言うもんじゃないと思ったからね」
それから50年の時空を経て、再び東京へ五輪がやってくるかもしれない。坂井はそれを心底待ち望んでいる。
「あれからずっと僕には『最終聖火ランナーの坂井』がついて回った。僕も両親も踏ん切るのに苦しんだけど、これはもう宿命。宝くじに当たったようなもの。勝ち取ったわけじゃない。結論から言うと僕は幸せな人間だと思っている。どうして選ばれたのかいまだにちゃんと聞いていないけど、多くの人と出会えたのはありがたいこと」
仮に東京に決まったら、坂井は開会式をどこで見るのだろう。
「新しい国立競技場の片隅で聖火の点火を見たいね。とにかくもう一度来てくれたらみんな分かりますよ。五輪のすばらしさが。食べず嫌いじゃ駄目。一度食べてみないとね」。東京五輪を語る坂井の目は生き生きと輝く。今年68歳になったが、あの時の19歳の青年ランナーそのままだ。そして心の中で思い切り叫ぶ。五輪よ、もう一度東京へ来い‐。=敬称略=