東京五輪最終聖火ランナー 坂井氏死去
1964年東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた坂井義則(さかい・よしのり)さんが10日午前3時1分、脳出血のため東京都文京区の病院で死去した。69歳だった。広島に原爆が投下された45年8月6日に広島県三次(みよし)市で生まれ、早大1年で迎えた東京五輪で聖火台に点火する大役を担った。葬儀・告別式は14日正午から練馬区関町北4の16の3、本立寺(ほんりゅうじ)で。喪主は妻朗子(ろうこ)さん。
1964年10月10日、秋晴れの国立競技場の聖火台に火をともしたのが坂井さんだった。7万余りの大観衆が見守った中、東京五輪の開会式の聖火最終ランナーとして、点火。戦後復興と平和の象徴として大役を担った。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された1時間半後、爆心地から約70キロ離れた広島県三次市で生まれた。父は電力会社に勤め、原爆投下後の広島市に入って被爆者健康手帳を持っていた。外国メディアは「アトミックボーイ(原爆の子)」と書いた。
三次高時代に国体の陸上400メートルで優勝。東京五輪出場を目指したが、かなわなかった。被爆者ではないものの、原爆投下当日に生まれたことが、最終ランナーに選ばれた要因と言われている。
リハーサルは2回程度。点火やポーズの指導は、後に男子マラソンの瀬古利彦を育てた名将、故中村清氏から受けた。聖火台の左に立ち、右手で点火。リハーサルでは右に立って、左で点火した。3分程度だったが、「僕の人生を全部決めてくれた場所。聖地は国立競技場の聖火台」と言った。
東京五輪から2年後。66年のバンコクアジア大会では400メートルで銀メダルを獲得した。1600メートルリレーでは金メダルを手にした。早大卒業後にフジテレビに入社し、五輪の現場に出た。
最初は72年ミュンヘン大会。パレスチナ・ゲリラのイスラエル選手団襲撃事件があり、日本選手団のユニホームを借りて選手村に潜入した。96年アトランタ大会は市内で爆弾テロが発生。東京で「平和の祭典」を体現した人が立ち会った五輪は、テロの舞台という皮肉な巡り合わせだった。
あの日から50年。そして、2度目の東京五輪開催が決定して1年。6年後には、再び東京に「世紀の祭典」がやってくる。「何かつくり上げるという国民の大きな目標になる」と目を細めていたが、自らの願いはかなわなかった。