福原にご褒美のメダルを 「五輪コラム」
卓球女子シングルスで福原愛は悲願のメダルに届かなかった。3位決定戦に勝てば、五輪シングルスのメダルは日本の男女を通じて初めて。長年、世界のトップクラスで戦ってきた福原自身にとっても、世界選手権、五輪を通じての初の個人メダルだった。幼児時代からアイドルとして卓球界に貢献してきた無冠の女王の4度目の五輪。自己最高の4位に本物のメダルはないが、これまでの頑張りに「ご褒美のメダル」をあげたい。
▽無情のエッジボール 12年ロンドン五輪では、福原を中心とした女子が団体で2位となり、五輪では日本初のメダルを獲得した。今回は「シングルスでもメダル」が合言葉だった。 27歳になった福原は覚醒したような快進撃を見せた。試合中の表情からは過度に思いつめたような硬さが消えた。プレーもがむしゃらに打ち込むのではなく、相手に応じた自然体になった。準々決勝までの3試合は1ゲームも失わなかった。強打に頼ってむきになって打ち合ったこれまでの単調さに代わり、勝負どころをつかんだ戦略性に成長の跡が見えた。 20年以上、卓球に打ち込んできた156センチ、48キロの小さな体は、ロンドン五輪後に悲鳴をあげた。右肘の手術、左足小指の疲労骨折、腰痛の発症とそれまで経験したことのない故障が相次いだ。福原の周囲では現役引退が近づいているとの感触もあったそうだ。それでも、直前1カ月の練習で五輪に間に合わせベスト4まで勝ち上がった。3位決定戦の最後は、福原のコートにエッジボールが入り無情の試合終了。かつての「泣き虫愛ちゃん」は、こみ上げる涙を懸命にこらえて「団体戦に向けて切り替えたい」と言った。 ▽卓球ニッポンの救世主 福原は実力、人気とも凋落していた卓球ニッポンの救世主だった。 戦後、男女を通じて数多くの世界チャンピオンを輩出していた日本は、国際舞台に復帰した中国の台頭、韓国や北朝鮮など他のアジア勢の躍進、伝統の欧州強豪国の復権などにより世界の勢力争いから後退した。88年ソウル大会から卓球が五輪競技に採用された後も日本はメダルなしの不振が続いた。 小さい卓球台をはさむ神経戦の競技は「根暗スポーツ」と言われたりもした。卓球協会はイメージアップ作戦を展開。卓球台を青色にしたり、カラーボールを導入したりした。人気落語家を起用してのキャンペーンも企画した。 卓球へのネガティブイメージを一掃したのが、国民的アイドルとなった福原の出現だった。1990年代前半に「天才卓球少女」として華々しくメディアに登場。5歳で全日本選手権小学2年生以下のクラスで優勝するなど実力も申し分なかった。2004年アテネ五輪には15歳で出場してシングルス4回戦まで進出した。 愛くるしいキャラクターは全国に受け入れられ、テレビCMなどにも引っ張りだこに。卓球は「根暗のスポーツ」から「アイドルのいる人気競技」に生まれ変わった。福原に続けとジュニアから才能のある有望選手が相次いで出現。今回のリオ五輪女子代表は福原、23歳の石川佳純、15歳の伊藤美誠という新旧の「天才少女トリオ」で編成された。 卓球人生の集大成になるはずの個人戦メダルは消えた。それでも、これほど幅広いファン層から多くの支持を得た五輪選手は過去にいない。団体戦ではもう一度、福原愛ならではの笑顔を見せてほしい。(荻田則夫)