「メダル請負人」でシンクロ復活 「五輪コラム」

 シンクロナイズドスイミングで「メダル請負人」と評される井村雅代さんが、監督に復帰した五輪で日本に2大会ぶりのメダルをもたらした。乾友紀子、三井梨紗子組がデュエットで銅メダル。井村さん不在の間にメダル常連国から陥落した日本を短期間で再浮上させ、カリスマ指導者の力量をあらためて示した。

 ▽優しい鬼コーチ

 シンクロが初めて五輪で実施された1984年ロサンゼルス大会から04年アテネ大会まで、日本は実施全種目でメダルを獲得。井村さんはすべての大会で指導に関わった。そんな名指導者が06年、突然、日本を離れた。08年北京五輪を控えた中国代表ヘッドコーチに引き抜かれたのだ。日本水泳連盟内での意見対立も背景にあったという。

 北京五輪を1年後に控えた07年夏。北京の専用施設で中国代表候補を鍛える井村さんにお会いした。選手たちは広い全土から選ばれた英才ばかりで、すらりと伸びた肢体が「シンクロ向き」だと井村さんは話した。まだ五輪ではメダルがなかった若い中国選手に、井村さんは日本の時と同じように厳しく接した。選手たちはそんな日本人コーチを「中国人よりきつい」と言いながら「優しい鬼コーチ」として慕った。

 時には1日に12時間にも及ぶ日本式の猛練習を課した。覚えたての中国語も交えて叱り飛ばすのも同じだった。「この子らは(私の)中国の娘なんよ」と愛情を注ぎながら強化していった。

 そして北京五輪のチームで中国は銅メダル、日本は5位に転落し初めてメダルを逃した。12年ロンドン五輪では中国がチーム銀、デュエット銅とさらに躍進し、日本は両種目で表彰台に届かなかった。中国ではメディアから「シンクロの母」と称賛された一方、日本からは「伝統のノウハウを中国に売り渡した」などと非難も浴びた。

 ▽プロのたくましさ

 優秀な指導者が国境を越えて技術を伝えるのは目新しいことではない。日本でもリオ五輪の各競技の監督、コーチに多くの外国人がいる。井村さんへの厳しい風当たりは、中国の急成長によって日本が強豪国から転落したことへのやっかみだった。

 井村さん不在の間、日本は指導者の若返りを図ったが、経験の少ないコーチが何度も代わって迷走した。指導の一貫性が途切れ、新たなコーチング手法も編み出せなかった。多くのメダリストを輩出しながら指導者が育っていない実情が浮き彫りとなった。

 井村さんは自らシンクロクラブを創設、経営しながら多くの選手を育てた「プロの指導者」だ。「プロ」はたくましい。確執があったとされる日本代表への復帰要請に「日本をメダル常連国に戻す」と快諾。すっかり軟弱になった代表を、基礎体力づくりから立て直した。「あかん、あかん」という関西弁の叱咤は昔と同じ勢い。厳しさと優しさが入り交じる選手への接し方も変わっていない。

 井村さんの選手を徹底的に追い込む手法は伝説的ともいえる古いスタイルだが、その効能は生きていた。復活の銅に井村さんは「メダルを日本に戻してあげたかった。まずはデュエットでお役に立てた」。この日が誕生日だった66歳の、柔らかな笑顔だった。(荻田則夫)

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