荻原次晴氏、双子の兄・健司氏と「1万回間違えられた」涙で母への暴言を猛省
ノルディックスキー複合の元日本代表でスポーツキャスターの荻原次晴氏が11日放送のテレビ朝日系「しくじり先生」(日曜、後9時58分)に出演。1992年アルベールビル、94年リレハンメル両冬季五輪の複合団体で2大会連続金メダリストとなった双子の兄・健司氏と自身の競技人生を振り返りながら、自身が母親へ吐いた「なんで俺を双子に産んだんだよ」という暴言を、「何て愚かなやつだったんだ」と涙で猛省した。
次晴氏はノルディックスキーを始めた頃は自分の方が健司氏より「器用だった」としながら、兄が努力を重ねて成功したことへ「俺はまだ本気を出していないだけ」と現実から逃げていたと回想。2人で早大スキー部へ進んだが、次晴氏は練習に実が入らず、「本気でやりたいのはラッパー」と「MC TSUN」という芸名で音楽活動をしていたと、当時の服装を再現して紹介した。
大学4年になると、兄は後に金メダリストとなる翌1992年アルベールビル冬季五輪代表に選ばれ、対照的に自分は単位が足りずに留年。さらに、金メダルによる「健司フィーバー」が巻き起こり、世間では双子の弟がいることを知る人も少なく、次晴氏が街中を歩くと健司氏と「1万回間違えられ、サインを求められた」と述懐。双子であることを説明すると長くなるので、健司氏のサインを覚えて書くようにもなったという。
健司氏に対して「余計な事しやがった」という気持ちも抱くようになった次晴氏は、自暴自棄になって父親と口論した際に、止めに入った母親へ「なんで俺を双子に産んだんだよ」という言葉を吐いてしまったという。
しかし、次第に次晴氏は「自分も有名になって次晴の存在を知ってもらおう」と健司氏と同じ北野建設に入社し、競技生活へ本腰を入れた。94年リレハンメル五輪出場はかなわなかったが、4年後の自国開催・長野五輪では兄弟そろって代表入りし、98年2月13日の五輪本番当日を迎えた。
ノルディック複合は1日目がジャンプ。「大観衆でプレッシャーと恐怖で震えが止まらなかった」と振り返る次晴氏は、ジャンプ台で健司氏とすれ違った際に「頑張れよ」と初めて励まし合ったという。そこで次晴氏はK点越えの91・5メートルを飛び3位。健司氏は90メートルで9位。インタビューでは自分の方に注目が集まった。
2日目のクロスカントリーではジャンプの成績順で先に次晴氏がスタートした時に「健司がんばれ~」という声も飛んだが、次晴氏は「同じ画面に入って双子ですよとアピールしよう」と、後からスタートの健司氏との「フレームイン」を実現。日本代表の同じウエア・帽子では区別がつかないことから、帽子を脱ぎ捨て「髪の毛が見えてる方が次晴」を強調したという。
長野五輪では健司氏が4位、次晴氏が6位で双子による同時入賞を果たし、2人はゴール後、「人生で初めて」の握手を交わしたという。当時の記者会見では「いいアピールができた。地獄から這い上がってきた思いです。満足してます」と次晴氏はコメント。番組では「あの瞬間引退を決めていた」と明かした。
最後に次晴氏は「遠回りしたが、競争社会で頑張る皆さんへ、まだ知らない自分に会えたら、次は晴れます」とシャレを交えると、目から涙をあふれさせ、「うちの大事なおふくろに『なんで双子に産んだんだ』と…こんな愚かなやつはいません」と話し、長野五輪後に「おふくろのところに飛んでいって謝った」と締めた。
番組では兄・健司氏もVTR出演し、「誰よりも弟を見てきた。本気を出せば五輪に出られると思った。人生最初で最後に一緒に戦えた。双子で生まれて良かった。感謝します」というメッセージも流された。