「回転レシーブ」神田好子が語る東洋の魔女 “鬼の大松”は王子様だった!
1964年の東京五輪で“鬼の大松”こと大松博文監督の下、圧倒的強さで強豪ソ連を下して優勝したバレーボール女子日本代表。男女合わせて球技初の金メダルは、師弟の強い絆から生まれていた。「回転レシーブ」で守りの要を担った神田(旧姓松村)好子さん(75)が語る“東洋の魔女”の知られざるエピソードは、意外なものだった。
大阪府枚方市。神田さんの自宅には、2つの宝物がある。一つは“東洋の魔女”の名を世界に知らしめた1962年世界選手権の金メダル。もう一つは、西陣織の掛けひもがついた64年東京五輪の金メダルだ。50年以上の時を経て「いろんな人が触ってもきれいなまま。不思議でしょ?」と輝きは変わらない。
大松監督が率いた東京五輪日本代表は12人中10人が日紡貝塚所属。紡績工場のあった大阪府貝塚市内で寝食をともにしていた。
伝説でもある“鬼の大松”の厳しい練習は、午後から深夜0時や1時まで続き、寮で寝床につくのは3時頃。試合が近づけば朝5時まで練習したこともあったという。ケガは日常茶飯事だが、骨折で当て木をしたままでも練習は続いた。
神田さんが洗礼を浴びたのは入社2日目。『洗面用具を持ってマネジャーについて行け!!』と大松監督に言われた。「『病院に行って盲腸をとってこい!!』と言われました。高校時代に2度盲腸を散らしていたので。手術して1週間で退院し、養生で1カ月くらいは家に帰れると思ったらすぐボール拾い。でも(主将の)河西さんなんて、手術の糸がついたまま練習してましたからね」
労働組合が大松監督を「女性の敵」と訴えたこともある壮絶な練習の日々。しかし、思い出を語る神田さんは笑顔だ。それほど師弟の信頼関係は強かった。
「肉体的なしんどさは休憩すれば戻るけど、精神的なしんどさは自分で解決できない。でも、大松先生が私たちを萎縮させることはなかったと思う」
単なるしごきでなかったことは、当時では珍しく練習中に水分を補給させていたことからもわかる。チームドクターなどいない時代に、ケガや病気の状況は懇意の医師とのホットラインですべて管理していた。怒ると強いボールが飛んできたが、直接手を挙げることはなかった。
選手には月に一度のお楽しみもあった。洋画好きの大松監督が「ベン・ハー」など人気映画を見に連れて行ってくれる日があったのだ。「今日は疲れているなという時は、5時頃に練習を終えて難波へ。映画を見てレストランで食事して、帰りは貝塚駅から寮まではタクシーでした」
選手の人生設計も考えていた。昭和30年代のこと。婚期を心配し、五輪前年の正月には数日間実家に帰し「ここでやめるか否か」を決めさせた。バレーボールは東京五輪からの新種目で、世界女王の“東洋の魔女”への国民の期待は最高潮だった。しかし、選手が望めば自身もそこで退くつもりだったようだ。
そんな大松監督に、選手たちの思いは特別だった。「(レギュラー)6人全員が理想の男性は大松先生。背が高く彫りが深くて美男子。怒られてもみんな先生が大好きで、先生と結婚したかったと言う人もいたほどです」
神田さんは第2次世界大戦で父を亡くしていた。メンバー2人以外は、ひとり親か両親がいなかった。自分たちを導き、守ってくれる大松監督は、若い乙女たちにとって鬼ではなく“王子様”のような存在だったのだ。
東京五輪が終わって大松監督が退くと、6人の内5人が引退。神田さんはまだ22歳だった。「大松先生がやると言ったら4年後までついて行ったかもしれないけど、世界選手権と五輪で金メダルを獲ったので、もういいと思いました。全然後悔はないです」
自宅には、2つの金メダルと並んで、褐色の古いボールがある。「日紡が練習で使っていた物。五輪が終わって一つもらってきたんです。何か記念に置いておこうと思って」。ボールの中心には大松監督のサイン。その周りを、魔女たちのサインが今も仲良く取り囲んでいる。