【私の五輪志・谷亮子さん(1)】憧れこそヤワラちゃんの原点 少女時代に見た…
2020年東京五輪へ向けての新企画「東京へ駆ける」。今回は各界のキーマンに聞く「私の五輪志」をお届けする。柔道女子48キロ級五輪2大会金メダリストで「ヤワラちゃん」として国民的ヒロインとなった谷亮子さん(43)が、少女時代に夢見た五輪の原点を語った。今回は(1)。
◇ ◇
-「田村で金、谷でも金」と偉業を成し遂げてきた谷さんと五輪との出会いは。
「(地元福岡で)五輪選考会や男子の体重別がありそれを見に行っていたので、五輪は4年に一度、世界最高峰の大会と小学校の頃からイメージづけられていました。(1984年)ロスや次のソウル五輪からテレビで応援していました」
-東京での自国開催はまた特別だ。
「これからの時代を担う子どもたちにとって(東京五輪で)映像や実際に見ることはすごくいい影響を与えてくれると思います。五輪に出たいという目標が自然と湧いてくる。私自身が誰かに与えられる目標ではなく、自分自身で目標を持ったのも小学校の時。イギリスのカレン・ブリッグスという選手(80年代に女子48キロ級で世界選手権3連覇)が、毎年福岡国際に来て毎年優勝していた。それが大きな憧れになりました。ブリッグス選手のようになりたいと技をまねして、それで勝てるとすごく喜びがあった。私も人から与えられた目標や促されたものだったらここまで続かなかったと思う。憧れの選手を持つことが大きな力になると身を持って感じます」
-そこが「ヤワラちゃん」の原点に。日本で女子柔道はまだ盛んではなかった。
「小学2年で柔道を始めた時には女子がなくて、試合も男子の中で無差別級でした。全国大会に出るようになった当時も私は特に体が小さくて121センチ、25キロくらい。小学2年くらいの体格だったと思います」
-それで男の子を倒していた。
「小学6年生の夏休みの出来事ですが、日本武道館で開催された全国柔道錬成大会の団体戦の先鋒で出場し、体重89キロの男の子を投げて勝利しました。決勝まで計10試合をやり抜いて、私たちの東福岡柔道教室が日本一に。当時は他にも大きな選手がたくさんいて、60キロ、70キロとたくさん対戦しました」
-厳しい練習をつらいと思ったことは。
「嫌だと思ったことは一度もなくて、本当に大好きなんです。小学2年から通った柔道教室の休みは正月の三が日だけ。年間362日くらいは練習していました。機動隊の中の道場で警察官の先生がボランティアで来てくださるんですが、放課後に練習に行くのが本当に楽しみで。毎日柔道着に、なぜかアイロンをかけて行っていたんです。自分より早く来る子がいると負けないように行く、風邪をひいて熱があっても行く。(中学、高校時代も)部活の後にその道場に行っていました。9時頃までやっているので、はしごです。翌朝6時からは学校でトレーニングなんですが、苦しいと思ったことは一度もなかった。ただ強くなりたい、勝ちたいという思いがどんどん大きくなっていきました」
-家では鎌を使って練習していたと聞いたが。
「最初に習った稲田明先生(元帝京大監督)が足技が得意で、鎌で刈るイメージだと言われたことがありました。それなら家にも鎌があるぞと思いついて、小学校の頃から実家の練習場でずっと続けた練習です。軽く振ってもらうんですが、(それを見て足技を)イメージすることで鎌だと(神経が)研ぎ澄まされるんです」
◆谷 亮子(たに・りょうこ)1975年9月6日、福岡市出身。旧姓・田村。小学校2年生の時に兄の影響で柔道を始め、福岡・城香中3年時に大会最年少の15歳で福岡国際女子選手権を制した。福岡工大付高(現福岡工大城東高)から帝京大、日体大大学院へ進学。10年までトヨタ自動車に所属。五輪は女子48キロ級で、92年バルセロナ銀、96年アトランタ銀、2000年シドニー金、04年アテネ金、08年北京銅。世界選手権は6連覇を含めて7度制した。03年にプロ野球選手の谷佳知氏と結婚し、現在2男の母。元参院議員。身長146センチ。