【平成物語10】真央とヨナ“日韓対決”を取り巻いた異質な熱
「平成26(2014)年2月 ソチ冬季五輪フィギュアスケート」
14年2月5日、ロシアのある地方空港は異様なムードに包まれていた。フィギュアスケート日本女子のエース浅田真央を待ち受けていたのは日本と、浅田としのぎを削ってきたキム・ヨナの母国・韓国の報道陣合わせて100人。半数以上がおそろいの青いジャンパーを着た韓国報道陣だった。
ソチ五輪で迎えるライバル対決最終章を前に、両国報道陣の熱はすさまじいものがあった。浅田が到着すると韓国メディアがカメラ位置を求め殺到。怒号が飛び交う中、日本メディアが浅田をガードする形で取材位置へ。記者は浅田の真横で押しつぶされながらメモをとった。視線の先で浅田は毅然(きぜん)と話していた。「こういうのも含めて五輪。覚悟はしてきた」。改めてこの女性が背負ってきたものの大きさを痛感させられた。
サッカーなどでの代表同士の日韓戦は常に熱を帯びる。ただ、1990年9月に、わずか20日違いで生まれた日韓の銀盤のヒロインは、個人競技として異常なほど“国”を背負わされていた。当初、ヨナは自伝で「よりによって、どうして同じ時代に生まれたのか」と浅田についてつづり、浅田もまた「いいライバル。お互いに頑張れれば」と話していた。互いに好敵手として認めていたのは確かだろう。ただ大人になるにつれ、当人同士がそれほど意識し合うことはなかったと思う。
ただ、周囲は違った。スポーツに政治や歴史を持ち込むことはタブーと分かっていても、人の感情は簡単には割り切れない。互いの国に持つ微妙な思いは、2人の美しきスケーターの氷上での勝負に投影され、その結果は国民感情を刺激した。メディアは両者を比較し、その議論は時に炎上を招いた。どうやって調べたのか、記者の私用のSNSに不穏なメッセージが届いたことも。ハングルでも日本語でも。その反応は狂気をもはらんだ。
ヨナはソチで銀メダルに終わり、その後に引退。浅田は6位入賞で、17年に現役に別れを告げた。ともに引退会見でお互いについてこう話している。「刺激を与えながら、もらいながらだった。ずっとスケート界を盛り上げてきたんじゃないかな」(真央)。「子どもの時から10年以上競争してきた。今後、私たち2人のように比較される選手はいないだろう」(ヨナ)
取り巻いた空気は決して健全な形ではなかったが、2人の戦いが両国でのフィギュア人気を確立させたと思う。原稿を書くたびに、胃は痛み、手は震えた。スポーツの枠を超えた異質な熱を持ったライバル物語だった。