さようなら小出義雄氏 平成の名指導者逝く…有森と銀銅、Qちゃんと金

 陸上の女子長距離の名指導者で、五輪金メダリストの高橋尚子さんらを育てた小出義雄氏が24日午前8時5分、肺炎のため千葉県浦安市の順天堂大浦安病院で死去した。80歳だった。選手を褒めて伸ばす指導と明るく豪快なキャラクターで知られ、高橋さんとの二人三脚は大きな注目を浴びた。近年は入退院を繰り返して現場に出る回数も減り、3月末で指導者を勇退していた。

 名伯楽は、帰らぬ人となった。これまでも入退院を繰り返していた小出氏は、3月下旬に入院。月末には一時は深刻な状態となりながら持ち直し、周囲にはリハビリすることを宣言していた。その矢先に病状は急変。駆けつけた妻子に見取られて、この世を去った。

 千葉・山武農高(現大網高)を卒業して一時は家業の農業を継いだ。だが、陸上への思いを捨てきれず、順天堂大に進学。箱根駅伝に3度出場した。卒業後は千葉県の佐倉高や市立船橋高などで教員を務め、陸上を指導。88年に実業団のリクルート監督に就任した。

 ひげを蓄えた、自称「飲んべえのおやじ」。豪快な笑顔とは対照的に、女子マラソンで次々と金字塔を打ち立てた。その指導は巧みで繊細だった。

 リクルート監督時代には有森裕子が92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪銅。積水化学に移籍した97年に鈴木博美を世界選手権優勝。00年シドニー五輪では高橋尚子が陸上日本女子初の金メダルに導いた。

 その指導術は三者三様。「有森の両親は教員だからね。有森が先生で俺は生徒。有森先生にその日の練習メニューを聞く。こっちはわざとだらしなくして、注意されるぐらいがちょうどいい」。鈴木とは「友達同士」。リクルートを率いた際の第1号選手で「博美とは相談しながら練習をやった」。

 高橋に対しては「Qちゃんは逆に、することを決めてあげないといけなかった」と先生役だった。高橋は98年の名古屋国際女子マラソンを当時の日本最高で優勝。記者会見場で監督が「お祝いだから、飲んで」と記者に缶ビールを差し出したこともあった。

 女子マラソンで世界記録を出せたら「俺は引退して家業の農家をやる」と言い切ったこともあった。01年ベルリンマラソンで高橋が2時間19分46秒で優勝して実現。すると目標を五輪2連覇に切り替えた。その目標こそ果たせなかったが、ビールと「かけっこ」を愛し、夢を追い続けて実現させてきた指導者人生だった。

 もう一度世界の舞台へ-。晩年にも、衰えない闘志があった。禁酒を宣言したのは11年7月17日。サッカーの女子W杯でなでしこジャパンが優勝したその日だ。「僕も、もう一度世界と戦わなければいけない。だから酒はやめる」。志半ばで勝負の世界に別れを告げた。天国で、8年ぶりのビールを豪快に飲んでいるだろう。

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