しずちゃん、五輪目指した戦いの日々振り返る 五輪のリングに立つ後輩へエールも
東京五輪のボクシングでは、日本女子として初めて並木月海(21)=自衛隊、入江聖奈(19)=日体大=の2選手が五輪のリングに上がる。女子ボクシングが初めて正式種目となった2012年ロンドン五輪を目指したお笑いコンビ「南海キャンディーズ」のしずちゃん(41、山崎静代)が、自らの戦いの日々を振り返るとともに、後輩たちにエールを送った。
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-東京五輪の女子代表に2人が決まった。ともに本番でもメダル候補に挙げられる。
「すごいですね。私が目指した(12年)ロンドン五輪は初めて女子ボクシングが正式に認められた大会。当時から現役でやってきた子に聞くと、最近はあの頃より世界のレベルがめっちゃ上がっていると。その中で日本人(18年世界選手権の並木)が銅メダルって、本当にすごいこと」
-女子はしずちゃんの現役時代を見て励まされた選手も多い。
「頑張っている方がそう思ってくれるなんてうれしいです」
-当時は芸人として人気を得ながら、なぜボクシングに。
「最初は本当に趣味で始めました。『あしたのジョー』が好きだったので、興味はあったけど機会がなくて。でも、大阪から東京に行って山本さん(プロライセンスを取ったロバートの山本博)に出会い、家の近くで気軽に通えるジムがあると教えてもらって」
-そんな時にNHKのドラマ『乙女のパンチ』でボクサー役を。
「出会いとタイミングが大きかったですね。ボクサー役をいただいて、ボクシング指導で(トレーナーの)梅津(正彦)さんに出会い、ボクシングの楽しさを教えてもらった。ドラマが終わっても梅津さんとの練習は続けたいと思っていたところに、ロンドン五輪で女子ボクシングが初めて正式種目に認められるというニュースが入ってきた。2人でこれはやるしかないなと。ただ、当時は『芸人が何言うてんねん』という雰囲気だったので、あまり言わずに2人でやろうと」
-日本代表候補になり、ボクシングがメインの生活に。
「どんどんのめり込んでいって、仕事よりボクシングで頭がいっぱいに。次の試合はいつ、合宿がいつだと仕事を調整できるかと心配で。朝走って、仕事に合わせて毎日ジムに行く生活。(通常のジムワークは2、3時間程度だが)梅津さんとは5時間とかで、とにかく技術練習でした。同じことを反復して何回も怒られて。ミットでは(3分ごとにインターバルの)ラウンドは無視して1時間くらいやっていた。私は(覚える)スピードが遅かったので」
-減量は。
「ボクシングを始める前のピークは85キロくらい。ミドル級(75キロ)まで少しずつ10キロほど落としました」
-30歳を過ぎてからなぜそこまで。
「とにかく強くなりたかった。イギリスの元世界王者とマス(寸止めの実戦練習)をさせてもらった時に、明らかに格が違い過ぎて、どうあがいてもこの人には勝てないと。五輪に出るためには、世界のレベルに対して自分は低すぎると気づきました」
-悔しかった。
「梅津さんがどんどん厳しくなっていったので、その悔しさで食らいついていく気持ちも強かったです。とにかく厳しくて精神面に痛めつけられる。それに負けたくない、なにくそという気持ちが大きかった。梅津さんでなければあんなにやれなかったと思います。鬼のような練習後には人が変わったようになり、しずの腕や足、体に言っているんだと言うけど、私は(厳しい言葉が)全部心に来て流せない。あれだけ怒られたことは親にもなかった」
-芸能人として全く見られなかった。
「テレビの仕事を終えてジムに行くと、私の雰囲気を見て芸能人から切り替わっていないといつも言われて。出稽古で高校や大学に行かせてもらうと、練習後にみんなでぞうきんがけをするんです。しずちゃんはいいからとみんなに言われて私も最初は甘えていたけど、梅津さんは許さない。私も道場では一ボクサーになりました」
-ロンドン五輪の予選前には体調不良や、練習中に泣いてしまったこともあった。
「いっぱいいっぱいに追い込まれていた時期ですね。梅津さんに怒られすぎて過呼吸が癖になってしまっていて、それがだんだんマスコミへの怖さになってしまった。五輪が近づいて、ありがたいことだけどいっぱいカメラとかが来て、シャドーをしていても撮られて。呼吸がヤバくなって、それをまたカメラが撮っている。何で人が苦しんでいるのに撮るのって」
-注目されることには慣れていても。
「芸人はカメラに映ってなんぼ。常に、聞かれることにはできるだけ答えますというテンションでいる。今から集中するので1回カメラやめてもらっていいですかというのは、絶対に芸人にはない。だから、試合前に(気持ちを)つくっていくときにも答えてしまう。梅津さんにはもっと自分の状態を知って、そこでのサービスは全然いらないと厳しく言われました。気持ちが芸人のままだった」
-追い詰められても、耐えられたのは。
「なにくそですね。梅津さんに対するなにくそは常にあって、それが自分に対してのなにくそにもなる。自分に悔しくて」
-ロンドン五輪選考を兼ねた12年世界選手権(中国)では、初戦(2回戦)でウズベキスタン選手に3回RSC(レフェリーストップ)で勝利した。
「1勝が目標ではなかったけど、初めて世界大会で1勝できて、あんなにうれしかったことはなかった。生まれてきて初めてくらい。04年M-1(準優勝)もアドレナリンが出て興奮状態だったんですけど、世界選手権の方が上やったかもしれません」
-3回戦(16強)で敗れ、ロンドン五輪を逃した。古傷の右膝を手術してリオ五輪へ再スタートを切ったが、二人三脚の梅津トレーナーが13年7月にがんで亡くなった。
「梅津さんがいなくなって本当に存在が大きかったと思ったし、今までケツ叩いてもらっていたのを自分で叩かなあかんとなってちょっとしんどくなって。でも、自分の中でやめるということは逃げるということ、その選択肢はないとも思っていました」
-芸人としては。
「仕事への不安がこの頃に出てきました。ロンドンの時はがむしゃらに強くなりたいだけで仕事のことなんて考えられなかった。でも、私はこれから仕事をどうしていくのかなって。毎日練習してリオを目指しているけど、二足のわらじがうまく履けていない。どっちかがうまくいかないとどっちかのせいにして、すごく中途半端だった」
-リオ前年の15年に引退表明。芸人としての収入も減っていた。
「一番よかった時から10分の1くらいになっていたと思います。それまで“ボクシングのしずちゃん”にどこかで頼っていた。それが芸人一本で行きますと言って、仕事があるのかいうのが一番不安でした。山ちゃんは南海キャンディーズで(コンビで)やろうと言ってくれたけど、一人でもいい感じにいっていた。ボクシングをやめた時、偶然本屋で「山里世代」と書かれた本を見て、こんなに差がついていたんやと気づきました。生き方は人それぞれなんですけど、結婚とか出産とかもっと考える時期やったのに、私は何も考えずにいたとこの時は不安にもなって」
-そこから、芸人として再び人気者に。
「あの時期がなかったら、芸人としての今は絶対になかったと思います。ボクシングで頑張っていたことを知ってもらえて、今も芸能界でやらせてもらえている。私は芸人としては、下積みが長い人と比べたらすごいラッキーだった。(大阪時代は)実家に住んでいたし、早い段階でパッといかせてもらって。だからこそボクシングで苦労しろと、神様がやらせてると思ってました。自分の中でこれだけやったと言えるものが唯一ボクシングなんですよね」
-今後、ボクシングに関わることは。
「実は(ロンドン五輪を一緒に目指した)釘宮(智子)さん(ライト級の19年世界選手権代表)のセコンドをやりたいと思ってアマチュアの役員登録をしていたんです。でも、去年12月の試合(五輪予選への日本代表決定戦)は仕事で無理で、彼女はそこで負けてしまった。これからも何か役員としてやれたらとは思います。女子ボクシングを少しでも知ってもらうために」
-東京五輪代表へ。
「自分のために戦ってほしいし、それがみんなの元気になる。今は練習がしにくい状況かもしれないけど、自分が強くなる、自分が優勝することだけを考えて戦ってほしい。(五輪出場)第1号としての誇りはずっと持っていけますね」