選手支える“相棒”の競泳水着、究極への挑戦 64年東京五輪から続く進化の変遷
競技において、ウエアはアスリートを支える貴重な“相棒”の一つだ。中でも体一つで戦う競泳の競技用水着は、年々さまざまな進化を遂げてきた。東京五輪の1年延期は決まったが、水着にとっても五輪は4年に一度の大舞台。コンマ1秒を争う選手の戦闘服の変遷を振り返る。
0・1秒でも速く-。その一心で戦う選手の成長と同様に、彼ら彼女らを支える水着の進化も日進月歩だ。
スポーツ用品大手のミズノは、1924年に水着の制作を開始。64年東京五輪で選手が着用した水着は、第一の進化を遂げていた。それまでは絹(シルク)製だったが、ナイロン100%のニット素材で制作。現在競泳水着の企画を担当する大竹健司氏(43)は「丈夫さという面では大きく改善されたのでは」と想像する。ただし、横への伸縮性はあったが縦には伸びにくいのがまだ難点だった。
次の“進化”は76年モントリオール五輪。糸自体が伸びる素材であるポリウレタンが使われるようになり、動きやすさが格段に増した。現在の水着の原型とも言われている。
88年ソウル五輪あたりから“速く泳ぐ”水着作りが始まった。科学的なアプローチを行い、いかに流水抵抗を減らすかを考慮した水着が考案されるようになったのだ。素材の進化に始まり、体の形に合った裁断や縫製技術も向上。そこに科学的知見が加わっていった。
2000年シドニー五輪で「サメ肌」とも言われる全身を覆った水着が登場。その後、08年北京五輪には、英スピード社によるレーザー・レーサー(LR)の全盛期が訪れた。
縫い目がなく、体全体を強く締め付けることで抵抗を減らしながら理想の泳ぎのフォームを維持させるLR。それまでも、体の形が生み出す抵抗を減らそうと各社が努めてはいたが「今までの発想になかった」(大竹氏)と言うほど極端な締め付けと、体を浮かせるように感じるほど水を含んでも重くならない素材が用いられた。高価な上、着るのに30分かかるとも言われたが、北京五輪で誕生した世界記録25個のうち23個はLRを着用したものだった。
五輪直前の08年6月には、初めてLRを着た当時25歳の北島康介が「泳ぐのは僕だ」と書かれたTシャツを着るなど、国内外で水着論争が巻き起こった。
必要以上に水着に注目が集まったことへの懸念もあり、競技の本質を守るため10年に国際水泳連盟(FINA)が規定を制定。全身を覆うものは適用外となった上に、素材も繊維に限定され、ラバー製は禁止になった。厚さや浮力なども規定されたことで“論争”は決着。一定のルールの中でより速く泳げる水着の開発を目指すようになった。
ミズノでは11年に「GXシリーズ」を発表。水への抵抗が少ない、推進効率の良い姿勢で泳ぐ「フラットスイム」をテーマに開発を行っている。
20年モデルは、はっ水性の高い生地を用いたことで「水中で軽い水着」(大竹氏)を提案。軽いことは、高いボディーポジションを維持すること、つまりより効率のいい泳ぎにつながる。
これまでは、選手からの要望を改善しながらより速い水着を開発してきたが、要望自体がほとんど出なくなるほど、水着も進化してきているという。もちろん、はっ水性など新たな要素を取り入れることで“究極”への挑戦は続くが、規定の中でメーカーから選手に速さを「提案」する時代に突入し始めた。