空手組手・篠原、1年延びた現役「運命」 一度断たれた代表切符…コロナ禍でチャンス再来
6月22日、全競技初となる東京五輪日本代表の再選考が決まった。空手組手の男子67キロ級と女子61キロ級。コロナ禍で五輪ランキングのポイント対象大会だった3月のプレミアリーグ(PL)ラバト大会(モロッコ)が中止となったため、一度はその時点のランキングで代表を決めたが、世界空手連盟(WKF)が来年代替大会の実施を決め、選考の見直しが決まったからだ。僅差で一度は代表切符を逃したが、再びチャンスを手にした男子67キロ級の篠原浩人(31)=マルホウ=がこのほど、デイリースポーツの取材に応じ、複雑な胸中を明かした。
毎晩自問自答を繰り返していた。コロナ禍で大会が中止となったことは致し方ない。それまでに勝てなかった篠原自身の責任だ。
「夜も寝られなかったです。もうちょっと結果をしっかり残していたらこんな思いせんかったんやろうな…とか。勝てなかった自分に対しての責めが、毎晩続きました」
3月のラバト大会中止が決定。目の前が真っ暗になった。一度は4月のマドリード大会を代替の選考大会にすることになったが、また中止。その時点のランキングで代表を選ぶ運びとなり、五輪レースは終了した。走馬灯のように自身の空手人生のさまざまなシーンがよみがえってきた。
「最後まで大会をやりきれず、すごい悔しい気持ちはあった。でも仕方ない。みんな一緒やし、何も変えられない。正直『何でなんやろ』はあまりなかったんです。追い越し、追い越されが続いていたので、ほんまに自分を責めました」
差は172・5点。優勝すれば1大会で約1000点が与えられるだけに、逆転の可能性は十分にあった。
「(最後の選考大会)ラバト大会では絶対逆転できるって自信があったんです。自分自身をしっかりと見つめ直せていたし、動きもよかったので」
しかし、戦わずして選考レースに敗れた。しばらくはコロナの自粛期間が重なったこともあり、練習は休止。状況が二転三転する中、篠原の母は口癖のように「諦めんと頑張り」と声をかけ続けてくれたが「補欠としての選手生活が始まる。どうやってモチベーションを保とうかと…」。沈んだ気持ちはなかなか取り戻せなかった。
5月21日、WKFが再選考の方針を示し、6月22日には全日本空手道連盟が正式に再選考を発表した。篠原もわずかな可能性を信じ毎朝WKFの公式サイトを見ていたが、実際の発表には「正直驚いた」と振り返る。
「母は喜んでいました。再選考が決まってから、僕もチャンスをつかみたい気持ちでやっと前向きになれた。補欠のままだったら、練習も100%の気持ちではできてなかったと思う」
選考レース中は調整を優先し強化に時間を費やせなかったため、今は母校近大、浪速高を拠点に、じっくり体の使い方を意識して練習している。
実は東京五輪を区切りと決めており「今年で辞める予定だった」と篠原。21年五輪後に引退し、空手とは一線を置くつもりだ。「1年現役が延びたので、それも運命かな」。今は100%の気持ちで残り約1年の選手生活と向き合っている。
4歳の長男、2歳の長女、4カ月の次女。3人の父でもある。普段は遠征続きで一緒に過ごす時間が限られるため、今は家族での時間を満喫している。
「子育てはスポーツ。休む暇がないし、遊ぶのも体力を使う。家でゆっくり寝転べないし、めっちゃしんどいです。遠征行っていた方がラク(笑)」
それでも、練習に行く時はいつも子供たちが「頑張ってね」と送り出してくれる。五輪に出る父の背中を見せたい思いは強い。
「(もともとは)まさか空手が東京五輪というタイミングで(五輪種目に)入るとは思ってもないことだったけれど、五輪はやっぱり、スポーツでの1番の大舞台なので。目標は67キロ級で出場して、圧倒的に金メダルを取ること。それはずっと持ち続けている」
一度は断たれた東京五輪へと続く道。失うものは何もない。「いけるイメージはしている」。決戦の舞台がある喜びを胸に、集大成の覚悟を畳に刻む。