スタジアムが伝える震災の記憶 リーチ・マイケル「釜石のファンの前でプレーできてうれしい」

三菱重工相模原-東芝戦が行われた鵜住居復興スタジアム
 ボールを手に突進するリーチ・マイケル
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 「ラグビー・トップリーグ、東芝58-7三菱重工相模原」(6日、釜石鵜住居復興スタジアム)

 復興のシンボルでもあるスタジアムで、思いを込めてプレーした。日本代表主将で東芝フランカーのリーチ・マイケル(32)は「震災から10年経って釜石のファンの前でプレーできたことは嬉しい」と遠くを見つめるような目を向けた。

 前日5日にはリーチの故郷であり、母・イヴァさんの住むニュージーランド沖で、M8・1の大きな地震があったばかり。そして10年前。2011年。2月22日にはニュージーランド・クライストチャーチで大地震があり、3月11日に東日本大震災が起こった。

 19年W杯日本大会の12の試合会場で、唯一新設されたのが釜石鵜住居復興スタジアムだった。鵜住居地区は東日本大震災の津波による死者・行方不明者が586人。釜石市で最大の被害があった地だ。

 同地区防災センターに避難した240人余りのうち200人以上が津波にのまれ、“釜石の悲劇”と呼ばれた。一方で釜石東中、鵜住居小の生徒は防災教育に基づいて高台に避難。約600人の生徒に1人の犠牲者も出さず、“釜石の奇跡”と呼ばれている。

 “悲劇”と“奇跡”が同居する地。震災、復興のシンボルとして建てられたスタジアム建設地は“奇跡”の小中学校跡地。W杯を経て“10年後”を震災の記憶を発信し続ける使命を持つ。

 リーチが釜石の地に立つのはパシフィックネーションズ杯日本代表対フィジー代表戦が行われた19年7月以来。当時は試合前夜のミーティングでラグビーの話は一切なし。スタジアムの由来を話した。「みんなここでプレーをしたいと話していた」と語っていた。

 かつては新日鉄釜石が日本選手権7連覇を達成した、ラグビーの街。「釜石はラグビーの歴史のあるところ。年間を通してもっとラグビーの試合が釜石でできれば。代表戦をもう1回できるようになっていければ」。新たな夢の実現を熱く訴えた。

 メインスタンドの上には白く広がった屋根が鮮やかに映える。その柔らかい曲線には、海に向かう船の帆、または、未来に羽ばたく両翼-。そんな思いが込められている。

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