御嶽海は“長野の誇り” 木曽郡が相撲強化取り組み40年、関係者感無量
「大相撲初場所・千秋楽」(23日、両国国技館)
故郷の誇り「御嶽山」をしこ名に背負う御嶽海が新大関に昇進することは40年以上、相撲強化に取り組んできた長野県木曽郡の結晶と言える。中学、高校の恩師が当時から傑出した教え子の能力を明かした。
御嶽海が長野の悲願を結実させた。1978年長野国体、相撲会場に選ばれたのが木曽福島町。これを機に木曽の各地に土俵が作られ、相撲どころの再建計画が始まった。
組織を作り、指導者を育成。御嶽海は相撲のため自宅から住所を移し、隣町の中学に通った。まさに町ぐるみの強化だった。
木曽が育んだ大道少年は最高の素材だった。福島中時代の恩師、安藤均氏(63)は「足も速く、バスケットも上手でポイントゲッター。バク転も教えたら、すぐできた。立ち幅跳びも2メートル60センチ飛んだ。10点満点」と身体能力に舌を巻いた。
全中で中村大輝(北勝富士)に負けても淡々としていた。一方、最後の大会で8強敗退して号泣。「本当に相撲が好きなんだな」とクールに見えて気持ちの熱い子だと感じた。
木曽青峰高校時代の尾羽林英樹監督は「1歩目から2歩目の踏み込みが速い」と話し、教え子の最大の武器「瞬発力」は当時から群を抜いていた。太ももとふくらはぎ裏の筋肉の数値は「一流アスリート並み」だった。
山で行う実習では上りも下りもすいすい。「ぶり縄」という縄を使い木に登る演習では100キロ超の体で難なくこなし、バランスが完ぺきだった。
長野の相撲復興に尽力し続けた木曽相撲連盟会長の植原延夫氏が2016年、76歳で死去。御嶽海も小1から指導を受けた恩人だ。新三役に昇進した直後に訃報を聞いた御嶽海は九州場所の前で福岡に滞在していたが、すぐ葬儀に駆け付けた。
安藤氏は「植原さんも天国で喜んでくれている」と、長野に誕生する新大関に感無量だった。