【五輪コラム】小林陵侑「金」に続いて「銀」 珍しくない1大会個人種目2メダル
ノルディックスキー・ジャンプで男子の小林陵侑選手が12日のラージヒル(LH)で銀メダルを獲得した。6日のノーマルヒル(NH)と合わせて日本ジャンパー初の個人種目2冠の偉業はならなかったが、1998年長野冬季五輪での船木和喜選手に続く日本勢2人目の1大会個人種目2メダルを手にした。ただ歴史をひもとくと、この1大会2メダルは珍しくない。
▽ジャンプは感覚のスポーツ
第1回の1924年シャモニー大会から冬季五輪で行われているジャンプは、長く1種目しかなかった。第9回の64年インスブルック大会から70メートル級(現NH)と90メートル級(現LH)の2種目になった。それから今回の北京までの16大会で、両種目のメダリストが全く別だった大会は72年札幌大会と80年レークプラシッド大会しかない。ほかの大会は少なくとも1人は2種目ともメダルを獲得した。
ジャンプは感覚のスポーツである。どんな飛び方で一番遠くへ飛べるか、という問いに正確に数字で表す答えはない。これだけスポーツ科学が発達しても、分析はその時その時で最強の選手の動作などを解析し、それがその時代に最も遠くへ飛べる、という結果を導き出すだけだ。
札幌大会70メートル級覇者で、日本選手初の冬季五輪金メダリストになった笠谷幸生さんは78歳の今でも、細かく自分のジャンプを言い表すが「でも突き詰めれば、滑って踏み切って飛ぶ。それだけ。簡単なんだ、好調なときは」と表現する。
今も現役で飛び続ける船木選手は初出場の98年長野大会のNHでまず銀メダルを取り、次のLHで日本選手初のLH覇者となった。個人種目2メダルの日本勢第1号も「いろいろ考えずに体が動くときが一番いい」という。
小林陵選手が自分のジャンプを「イメージ通りに動けた」「いいイメージがあった」などと説明するのは、そうとしか言えないからだと思う。どの時代にも共通するのは、何も考えずに飛べる、あるいは体が勝手に動く選手が一番強い、という「感覚」である。
▽勝負の2週間
基本的に五輪はシーズンの中盤にあり、選手はみんなこのビッグ大会に照準を定める。いいイメージを持って臨めたジャンパーは2週間ほどの期間中、それを維持さえすれば好結果がついてくるのではないか。
長野の船木選手がいい例だろう。直前の年末年始に、ドイツとオーストリアで計4戦が行われる伝統の「ジャンプ週間」の総合優勝を日本人で初めて成し遂げた。五輪ではワールドカップ(W杯)で個人総合トップの選手が1回目は最後に飛ぶ。彼は五輪で、今は俺が一番強いんだという姿を見せつける立場に就くため、ジャンプ週間後も日本に帰らず欧州を転戦し、総合トップを守った。
本番でも考えた通りに飛び続けた。「もちろん2冠を狙っていたけど、NHは原田(雅彦)さんとソイニネン(フィンランド)という強い人がいて、僕はそのシーズン、NHで実績がなかった」と冷静に構えた。その結果、原田の2回目の失敗で銀メダルを手にした。いい感覚を持ったまま大会を過ごし、日本選手初のLH優勝や劇的な逆転優勝の団体に結びつけたといえる。
▽個人2冠は3人だけ
ただ、今回小林陵選手が逃した個人種目2冠の偉業はやはり容易ではなく、達成したのはこれまでマッチ・ニッカネン(フィンランド)と、今も現役のシモン・アマン(スイス)、カミル・ストッフ(ポーランド)の3人しかいない。
ニッカネンは板をそろえて飛んだ時代の大スターで「鳥人」と呼ばれた。84年サラエボ大会ではLHを制しながら、NHはイエンス・バイスフロク(ドイツ)に阻まれ「銀」だった。続くカルガリー大会は、この大会で導入された団体も勝ち、現在でも唯一の1大会3冠を誇る。シーズンを通して戦うW杯で総合優勝は4度、計130戦して半分以上の76戦で表彰台に上り、46勝を挙げた。1人だけ別格の飛距離を出すから「2位に入ればその選手は優勝と同じ」とさえ言われた。
アマン選手は2002年ソルトレークシティー大会で果たした。普段は眼鏡をかけた童顔の20歳。それまでW杯で勝ったことのない、まさにシンデレラボーイは、その容貌とともに魔法使いの少年が能力を突然開花させたストーリーに重ねられ「スキー界のハリー・ポッター」の愛称を付けられた。これでトップ選手の仲間入りを果たし、10年バンクーバー大会で再び偉業を成し遂げた。
ストッフ選手はアマン選手と違い、前年の世界選手権LHで金メダルを獲得するなど、有力選手の1人として臨んだ。踏み切ってから空中でほとんど動かない飛型は他の追随を許さなかった。2冠目のLHは、葛西紀明選手に飛距離で劣ったものの、飛型点は2回とも上回った。日本のファンにも激戦として記憶に残る。今季は力の衰えを感じさせたが、NHで3位に食い込み、地力を見せつけたあたりはさすがだった。(共同通信・三木寛史)