石川祐希の「ずばぬけたコピー能力」とは 盟友が明かす衝撃エピソード 「エンジンすごすぎ」で腹筋断裂も
10月に閉幕したパリ五輪予選で2008年北京五輪以来、16年ぶりの自力出場(21年東京五輪は開催国枠)をつかんだバレーボール男子日本代表。その中心にいたのが主将で、絶対的エースの石川祐希(28)=ミラノ=だ。競技を始めた原点、学生時代からここまでの道のりを全3回にわたって掲載していく。第1回は「バレーボールとの出会いから才能が開花するまで」。
石川のスポーツ人生は、小学3年から習い始めた野球から幕を開けた。足は学年で一番速く運動神経は抜群で、学校では人気者。バレーボールと出会ったのはその1年後だった。年子の姉が通っていた地元・愛知県岡崎市のバレーボールクラブ。そのクラブの監督から「1回やっていきなよ」と声が掛かった。
親の送り迎えに同伴して見学していたためルールは理解していたが、体の動かし方は分からない。その場で助走の方法、ボールを打つ手の振り方など見本を見せてもらいながら簡単なレクチャーを受けた。いざコートイン。実践すると手本通りの動きで、「バーン」と体育館内に音が響くほどのアタックをさく裂させた。
石川と小中高9年間共にプレーした中根聡太さん(現・星城高バレーボール部監督)は「人をマネする力が抜けていた。頭の良さもあったし、イメージをイメージ通りに体を動かせる」と、非凡な“コピー能力”に驚がくしたという。「僕は長い時間バレーをやってきたけど、ボールなんか触ったことない子が、こんなにできるなんてすごい」と当時の衝撃を振り返る。
それをきっかけに、野球からバレーボールへの転向を決めると、全国有数の強豪校の矢作南小、矢作中で基礎をたたき込まれた。中学1年の時は身長160センチ前後で線が細く、パワーもなかったが、学年を重ねるごとに身長はぐんぐん伸びた。2年で170センチ、3年で180センチ台に到達。高さが足りない時期に技術を磨いたことでエースに上り詰め、全国大会で3位の成績を収めた。
ただ成長速度に、肉体が追い付かなかった。愛知の名門・星城高に進学した1年夏のインターハイ中のことだ。スパイク練習で数本打ち込んだ時、右腹に痛みが走った。当時同校バレーボール部監督だった竹内裕幸さん(現・総監督)の元に駆け寄って「おなかが痛いです」と言うと、「トイレに行ってくるか?」と返されたが、今まで経験した腹痛とは何かが違った。「ちょっと見てください」。シャツを持ち上げると、右の腹部付近にピンポン球の大きさのへこみがあった。
体を大きくしならせて打つ石川の出力に、体が耐えられず腹筋が切れたのだ。全治2、3カ月で練習には参加できず、治療に専念することに。竹内さんは「ひょろひょろなのに、体の中のエンジンがすごすぎる。F1のエンジンを積んだ軽自動車のよう。これは絶対に繰り返させちゃいけない。ボディーをまず普通車に変えないと…」と思ったという。日の丸を背負うエースの才能が、開花し始めた15歳の夏。ここから恩師の下で成長を遂げ、史上初の高校6冠の大偉業を果たし、「石川祐希」の名が全国に響き渡っていく。
◆石川祐希(いしかわ・ゆうき)1995年12月11日生まれ。愛知県出身。小学4年生でバレーボールを始め、矢作南小、矢作中を経て星城高に進み、史上初となる2年連続3冠を達成。14年に中大に進学。同年9月に日本代表デビューし、アジア大会銀メダル獲得に貢献。大学在学中の14-15年シーズンにセリエA・モデナと契約。16-17年から2季連続でラティーナでプレー。18年3月の大学卒業後、プロに転向。18-19年はシエナ、19-20年はパドバ、20-21年からはミラノに所属。昨季はエースとして自身初の4強入り。192センチ。