石川祐希 人生を変えたイタリア挑戦 中大1年時セリエAから異例オファーに「行きます」 強さの秘密「壁に当たったことはない」

 イタリアを訪れた竹内監督(左)と、石川=2019年1月(竹内監督提供)
 イタリア1部リーグで活躍するミラノの石川祐希(左)=2022年12月、モンツァ(共同)
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 10月に閉幕した五輪予選で2008年北京五輪以来、16年ぶりの自力出場(21年東京五輪は開催国枠)をつかんだバレーボール男子日本代表。その中心にいたのが主将で、絶対的エースの石川祐希(28)=ミラノ=だ。競技を始めた原点、学生時代からここまでの道のりを全3回に渡って掲載。最終回は「バレーボール人生を変えたイタリア挑戦」。

 高校6冠を成し遂げた石川には、いくつもの強豪大学から声がかかった。その中からバレーボールの環境を優先して考え、中大への進学を決めた。

 その時点では海外でプレーする意欲はなく、「日本代表に入ってVリーグの試合に出て、人生を終えるのかな」と思っていた程度だった。大学1年時に初のA代表入り。転機は、その年の全日本インカレを制した後に訪れた。

 イタリア1部リーグ・セリエAのモデナから、短期留学としての契約の話が舞い込んできた。それまではVリーグで結果を残してから海外に挑戦するのが一般的で、大学生へのオファーは異例。世界トップが集まる世界への挑戦に胸が躍った。「行きます」。二つ返事で即答した。

 渡欧した先は一つ一つのプレーが超一級品。目で見たものを吸収して再現する能力が高い石川にとっては“教科書の宝庫”だった。同時に、まだまだ自分は成長できると思わせてくれた。モデナで試合出場の機会はなかったが、「バレーをするなら海外」と意識が変わり、日本以外での活動を望み始めた。

 大学リーグ、日本代表活動とハードスケジュールの中で活躍し、3年時にはセリエA・ラティーナとの契約を獲得。中大卒業後はシエナ、パドヴァ、ミラノと渡り歩いた。そのころには日本代表エースの地位を確立。21年東京五輪で29年ぶりの8強入りへ、今年のネーションズリーグで46年ぶりの銅メダル獲得へ、そしてパリ五輪予選を兼ねたW杯ではチーム最多の82得点を記録して、五輪切符獲得へ導く大車輪の活躍。現在の日本代表にとって、唯一無二の存在となっている。

 止まらない成長曲線を描き続け、ここまで「壁に当たったことはない」と言い切るのが石川の強さの秘密だ。スポーツに打ち込んでいると、誰しもが競技力停滞の時期やけがに苦しむもの。だが、それすらも“ただの課題”として捉えてきた。

 星城高時代、右腹筋が断裂した時や、人並み外れた自身の出力に体が追いつかず3日間しか試合に出場できない時もそうだった。監督として当時を見ていた竹内裕幸さん(現星城高総監督)は「あの時からおかしい(笑い)。普通うまくいかなくなったら、人間は壁と設定すると思う。でも彼は『何がダメで、必要な要素はこれで、繰り返したから克服できましたよ』という感じ。最近は腑に落とすために、人間ではなく“アスリート”という生き物だと思うようにしている」と別次元の愛弟子を分析する。

 ミラノでの昨季を4強で締めた石川は現在、優勝を目指して23-24年シーズンを戦っている最中だ。来年には1972年ミュンヘン五輪以来のメダル獲得の期待も高まっている。「世界一の選手になりたい」。日本男子バレーボル界の至宝が、パリの舞台でその夢をかなえる。

 ◆石川祐希(いしかわ・ゆうき)1995年12月11日生まれ。愛知県出身。小学4年生でバレーボールを始め、矢作南小、矢作中を経て星城高に進み、史上初となる2年連続3冠を達成。14年に中大に進学。同年9月に日本代表デビューし、アジア大会銀メダル獲得に貢献。大学在学中の14-15年シーズンにセリエA・モデナと契約。16-17年から2季連続でラティーナでプレー。18年3月の大学卒業後、プロに転向。18-19年はシエナ、19│20年はパドバ、20-21年からはミラノに所属。昨季はエースとして自身初の4強入り。192センチ。

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