古賀紗理那は自分が頑張ることでチームを勝たせる子 高校時代の恩師が明かすキャプテンシーの源泉
6大会連続となる五輪出場権を獲得したバレーボール女子日本代表。主将としてチームをけん引したのが、エースの古賀紗理那だ。初めてキャプテンの肩書がついたのは熊本・信愛女学院高時代。3年間指導した同高監督の堤政博さん(40)が、当時の様子を明かした。
高校2年。堤監督から主将に指名された古賀はこう言った。
「嫌。無理です」
中学時代からエースとして活躍するも、本当は目立つことは嫌い。時には厳しくチームをまとめなければならない役割はもってのほかだった。堤監督は「人が傷ついて嫌な思いをすることは言えない優しい子」と性格は分かっていたが「上に立たないと分からないこともある。今後のため」と将来を見据えキャプテンに任命した。
言葉では引っ張れない。そう感じていた古賀は、背中で見せ続けた。練習に身が入っていない緩い空気がチームに漂ったときは監督に直訴する。「私をしかってください」。エースの自分が誰よりも練習することで、仲間に刺激を与え続けた。
当時から日本代表に招集されていたため、高校の試合、海外遠征、代表合宿のハード日程をこなしていた。内臓疲労で体重が7~8キロも減少することがあったが、弱音は一切吐かない。足の甲を疲労骨折した時でさえ「練習をやらせてください。『痛くない』って言ってるじゃないですか」と訴える。堤監督も「医者から休まんばいかんと言われとる」と、ブレーキをかけるのに必死だったという。
時には「紗理那が一番に言わんといけないんじゃないの?」と同級生と衝突することはあったが、それでも古賀の努力は誰もが認め、言葉はなくとも後ろからついて行っていた。当時は全国からスカウトをせず、熊本県内の選手だけで戦っていた信愛女学院高。最後のインターハイは、準優勝の好成績だった。
「自分が頑張ることでチームを勝たせようとする子。あの子のことを悪く言う子はいない。今の姿を見ると、いろいろな経験がプラスになっているんじゃないかな」と堤監督。今では日の丸を背負った選手をまとめ、チームを五輪に導く唯一無二の主将になった。
◆古賀紗理那(こが・さりな)1996年5月21日、熊本県出身。母の影響で小学2年からバレーボールを始めた。大津中3年時は全日本中学校選手権で3位。信愛女学院高に進学し、高校2年時から日本代表に選出された。3年時はインターハイ準優勝。卒業後の2015年からNECに所属。23-24年シーズンは皇后杯とVリーグを制する2冠で2連覇に貢献し、MVPを獲得した。東京五輪代表。180センチ。最高到達点は305センチ。夫は男子日本代表の西田有志。
◆堤 政博(つつみ・まさひろ)1983年10月3日、熊本県出身。アウトサイドヒッターとして、東亜大では全日本学生選手権3位。U-20日本代表に選出された。2006年から熊本信愛女学院高バレーボール部コーチ。教員免許を取得し、13年から監督に就任した。