サーフィン日本男子代表オレアリー・コナー 父譲りの「優しい性格」と「秘めた闘志」元プロサーファーの日本人母に誓う金メダル 

 波に乗りながら母の柄沢明美さん(右)を撮影するオレアリー・コナー(撮影・堀内翔)
 記念撮影をするオレアリー・コナー、母の柄沢明美さん(右)
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 パリ五輪の注目競技の一つが、フランス領ポリネシアのタヒチで行われるサーフィンだ。日本男子代表で、オーストラリア出身のオレアリー・コナー(30)が初の五輪に挑む。元プロサーファーで日本人の母とオーストラリア人の父の間に生まれた心優しきサーファーが、このほどデイリースポーツの取材に応じ、これまでの人生の振り返りと、五輪金メダルへの熱い思いを明らかにした。

 オーストラリア出身の大柄なサーファーが、初の五輪を迎える。オレアリーは、流ちょうな日本語で「絶対に金メダルを取れるように頑張りたいと思います」とたくましく宣言した。

 「ドラマチック」な出会いの下に生まれた。元プロサーファーの母明美さんが試合でオーストラリアを訪れた際、交通事故に遭って困っていたところを助けてくれたのが、のちに夫となるフィンバーさんだった。明美さんは人生の節目を迎えた時に、結婚してオーストラリアへ行くことを決断。そしてオレアリーを出産した。

 両親ともにサーファーの“エリート一家”だったが、2人が玄人向けの海に入るからこそ、オレアリーは「波が怖かった」という。当初は海との距離があった。6歳でボディーボードに乗り、サーフィンを始めたのは9歳と遅かった。

 ただ、家族で訪れたオーストラリアのヌーサは日当たりも最高で、波も子供が乗るのに適していた。初めて父のサーフボードに乗ると「面白くて。とてもうれしかった」と、自然競技の魅力に一気にのめり込んだ。

 元々、運動神経は良かった。「両親がサーファーなのに泳げなかったら危ない」と、生まれて5カ月目から「オレアリー家の“必須科目”」の水泳を習っており、空手、テニスにも触れたことがある。特に6歳で始めたサッカーは、サーフィンが忙しくなってやめる14歳まで続けた。

 持ち前の運動能力と、熱心な練習で才能は開花。2017年にプロ最高峰のチャンピオンシップツアー(CT)に初参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するなど好調が続いた。19年のCT出場を逃すなど苦難もあり、一時は引退も頭をよぎったが、好きな日本語でもある『気合』を胸に戦い、21年に再びCTに復帰してみせた。

 サーフィンは21年東京五輪の新競技。長らく選手が目指す一番の目標といえばCT年間王者で、オレアリーも五輪にはあまり興味を持っていなかった。ただ、初めて見た五輪サーフィンは大きな刺激的な光景だった。「テレビを見て『わー!』って。本当にすごいと思った」-。五十嵐カノア(木下グループ)が銀メダルとなった決勝戦は食い入るように眺め、地元が同じで“お兄ちゃん”のような存在だったオーウェン・ライト(オーストラリア)の銅メダルは実際に見せてもらった。

 「オリンピックに行きたい」という思いが強くなるのは自然の流れだった。オーストラリアから日本への登録変更に向けて、東京五輪後から動き出し、23年9月にようやく変更が認められた。

 パリ五輪の会場は、世界有数の危険な波で知られるフランス領ポリネシア、タヒチのチョープー。武器のパワーサーフィンがあるとは言え、巨大な波だからこそ「準備がタヒチでは一番大切と思う」と手を抜かずに向かう。「あとはたくさん(筒状の波をくぐり抜ける)チューブに入る。オリンピックに全てをかけて楽しみたいんです」と目を輝かせる。

 もう一つの武器は静かに秘める闘志だ。はきはきした性格の母とは対照的に、幼少期から内気な性格で「優しい」父親によく似ていた。内側には「負けるのが本当に嫌い」という一面も持ち、強気に勝利を狙っている。

 五輪開幕まであと少し。好きな英語は「フロー(流れ)」。巨大な波で流れるような美しいサーフィンを見せ、日本勢初の金メダルを取りにいく。

 ◆オレアリー・コナー 1993年10月12日、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身。日本人で元プロサーファーの母・柄沢明美さんと、オーストラリア人の父フィンバーさんの影響により、6歳でボディーボードを手がけ、9歳の時にサーフィンを始めた。CTは17年に初参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。22年は自己最高の年間9位に入り、昨年は11位。185センチ、85キロ。

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