ラグビー神戸・弘津TD 日本選手権7連覇達成からわずか2日後に震災 助けられ、支えられた神戸製鋼ラグビー #阪神淡路大震災から30年

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」。今回はラグビーリーグワン・神戸の弘津英司チームディレクター(57)。日本選手権で7連覇を達成してからわずか2日後の被災を振り返り、震災に対する思いを明かした。

  ◇  ◇

 「30年ですか。今思うと、早かったですね」

 ラグビーリーグワン・神戸の弘津英司チームディレクター(57)は思いをかみしめるように言葉を紡いだ。

 1995年1月15日、東京・国立競技場。神戸製鋼(当時)は大東大に102-14という大差をつけて日本選手権を制覇。新日鉄釜石に並ぶ7連覇を達成した。まさに不動の王者と呼ぶにふさわしい大勝劇。弘津ディレクターは16日に神戸に戻り、17日は出社して職場に優勝を報告する予定だった。

 日本一達成から丸2日もたっていない、17日午前5時46分。激しい揺れに独身寮の自室のベッドから落ちそうになった。

 「一体何が起こったのか。その瞬間は全く考えが浮かびませんでした」

 しばらくは動くことができなかった。その後、ラグビー部員の無事を確認すると、つぶれた家屋の下敷きになっている人の救助活動を行った。神戸製鋼も本社ビルが全壊、高炉も操業停止と甚大な被害を受けた。さらに灘浜のグラウンドは液状化現象で亀裂が入り、無残な状態に変わり果てていた。2月のミーティングではラグビー部の活動存続が告げられたものの、被災地の状況を考慮すると、ラグビーをやらせてもらっていいのかという葛藤もあった。前人未到の8連覇へ挑むチームに危機が直面した。

 8月の北海道網走市での夏合宿で、ようやく全体がそろっての練習を再開。地域密着を掲げて活動してきたラグビー部だからこそ、被災した人たちに元気を与えることができると、チームの思いがひとつになってきた。秋には灘浜のグラウンドも使用できるようになり、関西社会人リーグは6勝1分けで同率1位。しかし、96年1月28日、日本選手権の準々決勝でサントリーと20-20で引き分けるも、トライ数の差で次戦への勝ち上がりはかなわず連覇は途絶えた。それでも、絶望的な状況を克服して、最後までシーズンを戦い抜いた。

 神戸のラグビーだから助けられ、支えられた。神戸のラグビーだから、伝えられることがある。

 「人間の力、強さ、やさしさというのはすごいな、と身に染みて感じた。ラグビーで元気を与えたい、恩返しをしたいという気持ちが強くなった」

 現在のチームには震災時には生まれていないという選手も増えてきたが、「人と防災未来センター」の見学などを行い、外国人選手にも震災を理解してもらえるように活動を続けている。そして、19日の浦安戦(ノエスタ)では、1・17をデザインしたメモリアルジャージーを着て戦う。

 「当時の皆さんのサポートがあって今のスティーラーズがある。次世代に継承しなければいけないし、その次の世代にもキチッと伝えてもらいたい」

 決して風化させない。言葉の端々に揺るぎない意志がにじみ出ていた。

 ◆弘津英司(ひろつ・えいじ)1967(昭和42)年11月24日生まれ、山口県出身。大阪工大高から同志社大に進学、90年に神戸製鋼(現リーグワン・コベルコ神戸スティーラーズ)に入社し、フッカーとして活躍。日本選手権7連覇に貢献した。95年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会の日本代表に選出。95、96年度には副将を務め、2003年3月に現役を引退。昨年10月、チームディレクターに就任した。

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