羽生、恩返しは「ここからがスタート」

 「ソチ五輪・フィギュアスケート男子・FS」(14日、アイスベルク・パレス)

 ショートプログラム(SP)首位の羽生結弦(ANA)がトップの178・64点をマークし、合計280・09点で日本男子史上初の金メダルを獲得した。

 頂点に立ったからこそ、簡単に言葉にはできなかった。メダリストによる会見。笑みが少ない理由を聞かれると、羽生は少し逡巡(しゅんじゅん)した後、こう話した。「ベストの演技ができなかったことも、実感がないのもある。ただ、震災のことが一番大きい。金メダリストになった今だから、自分に今までいったい何ができたのか考えてしまう。無力さを感じてしまう」。いまだ東日本大震災の傷痕が癒えない故郷仙台、そして東北への思いを巡らせた。

 2011年3月11日14時46分。その瞬間も羽生は氷の上に立っていた。ホームリンクの「アイスリンク仙台」。「氷が波を打つようだった」というすさまじい衝撃に、その場にへたり込み、スケート靴を履いたまま四つんばいで出口を探し、外に出た。すべてのものが倒れ、壊れていく。「もう駄目だと思った」。泣きじゃくり、ぼうぜんと立ち尽くすことしかできなかった。気がつけば、スケーターにとっての「命」といえるスケートの刃は、ボロボロになっていた。

 家族と何とか合流できたが、自宅は全壊。4日間避難所で過ごし、その後は全国各地のリンクを転々としながら、練習する日々が続いた。「自分だけスケートをやっていていいのか」。そんな感情が心を支配していった。

 迷いを消してくれたのは、1カ月後に神戸で行われたチャリティー演技会だった。同じく震災に見舞われ立ち直った神戸の町に、勇気をもらった。そして自分の演技に、涙を流してくれる観客を見て「スケートをやりたいなと思えた」。

 当時の光景は「今でも忘れられない」という。自分の演技の持つ力を信じ、前に進むことを決めた。リンクは震災の4カ月後に再開。しかし、若武者は翌年拠点をカナダに移すことを決めた。復興の途中にある故郷を離れるのに抵抗はあった。それでも、もっともっと強くなりたかった。

 金メダルの煌(きら)めきがどれだけの力を持つのか、羽生は知っている。震災前の05年。当時10歳の羽生少年は、その時もホームリンクを失った。原因は経営難。そんな状況を救ってくれたのは、黄金の光だった。06年トリノ五輪。同リンクで育った荒川静香が、日本フィギュア史上初の金メダルを獲得した。大きなムーブメントが起こり、07年3月にリンクは運営を再開した。「2年ぶりに再開された時、本当にうれしかった」。あの時羨望(せんぼう)のまなざしで見つめた金メダリストの姿に、自らの未来を重ねた。

 たくさんの人の支えで、今、自分はここにいる。だからこそ思う。この金メダルは、まだ恩返しの一つに過ぎない、と。「ここからがスタート。震災や、復興のためにできることがある」。最後はまっすぐに前を見据えて話した。揺るぎない覚悟と、決意を感じさせる言葉だった。

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