ラグビー代表・リーチ主将「日本のお父さん、お母さん」が語る札幌での原点
20日に開幕するW杯ラグビー日本大会。ニュージーランド人の父とフィジー人の母を持つ日本代表のリーチ・マイケル主将(30)=東芝=には、日本のお父さん、お母さんがいた。04年6月末に札幌山の手高に留学。最初の10カ月間、ホームステイ先となったのは当時札幌市内で寿司店を営んでいた森山修一さん、久美子さん夫婦の自宅だった。当時、三男の展行さんが同校ラグビー部の主将を務めていた関係で縁が生まれた。今でも休暇があればリーチ主将は家族で札幌を訪れる。深い絆を結んだ来日当初。リーチ主将の日本での原点を、札幌の両親に聞く。
マイケル少年が北海道の地を踏んだ日、森山家ではすしと揚げ物でささやかな歓迎会を準備していた。新千歳空港には、札幌山の手高の黒田弘則先生が迎えに行っていた。主役到着の一報はなかなか届かなかった。
修一さん「待てど暮らせど来なかった。黒田先生は『そんな大きな子はいない』と言う。大きいと思うじゃないですか。留学生だから。そうしたら小さい子がひとり出てきた。『ウォーリーを探せ』みたいな、しましまの服を着て、帽子をかぶって、大きなリュックを背負っていた。それがマイケルだった、ということです。身長はまだ175センチくらいだし、体重も74、5キロ。そのくらい-」
遠い日本で始まった新生活。ありがちなラグビー留学生像とは違う“ウォーリー”は、十分な覚悟を持っていた。日本とニュージーランドとの違いを克服していった。まずは言葉。
久美子さん「最初に話して、日本語も覚えて、大学に行きたいって言っていた。英語は禁止にして日本語を覚えようと約束して。模造紙に五十音を書いて天井に貼りました。英語の授業を受けないのでその時間に小学校3年生の国語の教科書を使っていましたね。みるみる上達しました」
そして、練習。ニュージーランドでは週3回程度。日本では週6日、しかもハードに行った。
修一さん「練習は好きだった。そういうところは普通の子とは抜きんでていたのかな。ニュージーランドにない練習法でやっていたから、伸びたんじゃないですか?」
久美子さん「練習が終わっても、1人でタックルとかやっていた。帰ってきて風呂に入っても、どこを洗っているんだか、バスタオルが真っ黒になった」
最後に食事。好き嫌いなく、とにかく食べた。
久美子さん「特別扱いはなし。普通の家庭と同じ食事を出していた。うちの三男坊も高校3年。大皿でぼんと作る。餃子なら100個くらい作って。争って食べていました」
修一さん「毎日の2人の弁当を作る。3色弁当とか作ってね。大きな弁当箱にご飯を山盛り3杯くらい詰めて、上に照り焼き、ショウガ焼き、ミートボール。何でも乗せた」
久美子さん「うちを出てからもびっくりドンキーのハンバーグを3枚食べたとか。マイケルは日本のご飯で大きくなった」
日本の練習で鍛え、日本の食事で大きくなった。高校3年になって身長で10センチ、体重は20キロほど増えた。高校日本代表で主将も務めた。“ウォーリー”の面影は赤と白のジャージーを除いてなくなっていた。
高校を卒業しても折を見て札幌に“帰省”した。札幌の両親は、マイケル少年の悲しい一面も知る。
修一さん「マイケルが大学3年のときに、やせて帰ってきた。お兄さんが亡くなってね。交通事故で(09年9月4日、4歳上のボビーさん)。マイケルはその話を嫌がるけど。あこがれの兄さんだったからショックだったと思う」
ありのままを見せられる第2の故郷が、札幌にあった。
高校時代は年1度、春休みにニュージーランドに帰っていた。その前に必ず行くところがあった。
修一さん「100円ショップ。たくさん買って帰る。カニの身をとるやつ、あるでしょ。あれがいいって」
久美子さん「マヨネーズと牛乳、ケチャップも。日本製はおいしいんだって。向こうのケチャップはトマトピューレみたい、牛乳はスキムミルクみたい。マヨネーズもさらさらっとしてドレッシングみたいだって。帰ってお母さんと妹に食べさせてあげたいって言うんですよ」
森山家に住んだのは最初の10カ月ほどだった。それでも、久美子さんは「うちの四男坊だよね」と言うほど深い絆がある。8月の網走合宿は夫婦で訪れた。修一さんは「実は3人で写った写真がなかったんですよ」と明かす。初めて、親子3ショットを撮影した。“四男坊”は「日本のお父さん、お母さんにも会ったし、準備はばっちりです」。心の準備は、縁(ゆかり)の深い北海道の地で整った。