【100歳プロ内田棟 5】何歳になっても自分はゴルフで飯を食っていく
貧しかった幼少時代は苦労を重ねた。20歳から約10年間は軍隊生活を経験。終戦後の混乱期もたくましく生き抜き、55歳の時にプロテストに合格する。そして2度のがんも乗り越え、100歳を迎えた内田プロ。そんな波瀾(はらん)万丈の人生を送る中で、座右の銘にしてきた言葉がある。
「得意平然 失意泰然」
「物事がうまくいっている時にはおごることなく淡々と過ごし、うまくいかない時は焦ることなく、時機の到来を待つ」という意味がある。どんな状況にあっても動じることなく、淡々と生きてきた内田プロの生きざまにぴったりの言葉だ。
100歳になっても普段の生活は昔と変わらない。朝は洗面台の前で1時間かけて身だしなみを整える。顔を洗い、首筋や胸もと、腕などもぬれタオルでしっかりと拭く。ヘアクリームを使って髪形を整え、化粧水で肌の手入れも入念に行う。「私よりもはるかにたくさん化粧水を使うんですよ」と政子夫人。100歳とは思えない肌つやも納得がいく。
服も毎日、きちんと着替える。外出する予定がなくてもパジャマ姿で過ごすなんてことはない。政子夫人によると、昔からとにかくオシャレだったという。「赤やピンクの服がお気に入りでした。真っ白なブレザーにピンクのズボンをはいて出掛けていました」
今も赤やピンクの服は大好き。毎日のコーディネートにこだわり、靴下の色にも頭を悩ませる。「あんまり地味な服を着てると、年寄りみたいに見えるでしょう」と内田プロは笑う。以前はハンチング帽がトレードマークだったが、現在は麦わら帽子。昔はキャデラックなど大型のアメ車に乗っていた。
軽井沢の自宅にはクラブを修理、加工する工房がある。ちなみに内田プロの父は木びき職人だった。その血を受け継ぎ、幼い頃から手先が器用で、子供の頃は木の枝でクラブを作って遊んでいたという。現在も工房にこもってシャフトの交換やライ角の調整を行っている。没頭すると家族の声も耳に入らない。「プロである以上、自分はゴルフで飯を食っていくつもりでやっている。これは何歳になっても変わることはありません」。プロゴルファーとしての自負を持ち続けている。
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内田 棟(うちだ・むなぎ)1916(大正5)年10月9日、長野県軽井沢出身。10歳の時に旧軽井沢GCでキャディーのアルバイトを始めたのがゴルフとの出合い。71年、55歳の時にプロテストに合格。トーナメントプロとして活躍する一方で、コース設計やレッスン活動もこなす。主な戦績は73年の日本プロシニア3位。ホールインワンは5度。息子は初代シニア賞金王の内田袈裟彦プロ(09年死去)。現在は長野県御代田町で妻・政子さん、長女・とも子さんと3人暮らし。