ポール・モーリアの耳コピがデビューにつながった 杏里インタビュー【2】
来年、デビュー40周年を迎える歌手の杏里(56)が7日、神戸市のデイリースポーツを訪れ、「CAT’S EYE」「悲しみがとまらない」「SUMMER CANDLES」といった多くの大ヒット曲を生んだキャリアや、初のスタジオライブアルバム「FUNTIME」、40周年への思いなどを語った。
第2回では、ポール・モーリアの耳コピから始まるデビュー秘話が明かされる。
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-ポール・モーリアがお好きだったという記述が、公式サイトにありますね。
「当時、父が-うち、みんな車好きなんですけど-とにかくドライブが好きだったんですね。毎週末になると、いつも山に行ったり海に行ったりしていて。当時、8トラックのカセットがあったんですけど、よくポール・モーリアだったり、かかっていたんですね、ドライブ中に車の中で。家にいても音楽があったので、邦楽、歌謡曲も聴いていたんですけど、洋楽の方が自分の中ですごくしっくりいったかなっていう…すごく影響は受けました。
私、兄が3人いまして、やっぱり兄弟の影響はすごく大きいですね。兄は一番レコードを持っていたんです。兄の部屋に行くと、レコードが何千枚ってあったんです。プレーヤーがあって。いま思うと、部屋に入られるの嫌じゃないですか。私は勝手に部屋に入って聴いてたんですよね。すごく怒られて。いないのを見計らって、出かけたなっていうところにそうっと入ってレコードを聴いてて、バレてまた怒られての繰り返しで、怒られながら音楽を学んで。
もう1人の兄から『そんなに音楽が好きだったらプレーヤーを買ってあげる』って言われて、パイオニアかなんかのちゃんとした。ピアノの横にプレーヤーを置いて、ポール・モーリアはカセットでも聴いてたんですけど、自分でもLPを買って、真横に置いて、何十回も針を落としながら、ピアノでコピーしていた。それが趣味だったんですよね。そこから曲を作る面白さを知ったっていうのはありますね。
耳でコピーして弾いて、学校に行って、音楽の先生が音楽室の鍵を貸してくれて。グランドピアノで気持ちよく、1人で休憩時間にピアノで弾いて。家でコピーして勉強して、学校の音楽室で復習していたっていうかね。それがすごく楽しくて。みんなが遊んでいる時に、そういうのをやっていたんですよね。ちょっと変わっていたというか」
-デビューのきっかけは。
「たまたま音楽業界の-フジテレビのプロデューサーの方が、家族ぐるみのお付き合いをしていまして、よくうちに遊びに来ていたんですね。私がピアノ弾いてるのをよく聴いていて、音楽が好きなんだなと思ったらしくて、私の許可も得ずにですね、プロダクションとレコード会社-フォーライフレコードですね-にお話をつけて。うちに来て、ちょっと音楽デビューっていう、プロにならないかっていうお誘いを受けまして。
私は(音楽が)好きだったので、さわり程度やってみようかなっていう軽い気持ちで、デモテープをスタジオで録ったんですね。何曲かデモテープを録って、数週間後にはデビューが決まったっていう。オーディションで何かをやったっていうことではなくて、知り合いの紹介で自然に、音楽の世界にスッと入っていったっていう。ピアノを弾いていたのがきっかけですね」
-歌については。
「歌は、当時カラオケがちょうど出始めだったから、よく家族では行ってましたね。しまいにはうちの兄が自宅の、カラオケの(装置)を買って、みんな歌ってましたねえ」
-16歳で、いきなりアメリカでレコーディングというのにも驚かされます。
「当時は日本のエコノミーが…円がすごかった。1ドル300円以上(※1976年は1ドル300円前後で推移)ですねえ。そんな時代に、アメリカにレコーディングで1カ月も行ったというのはちょっと珍しいんじゃないかと思うんですけど。まあお金のかかった新人。16歳の小娘にね」