丘みどり アイドル出身、演歌デビューはヘソ出し…亡き母の夢叶え紅白に
演歌歌手の丘みどり(33)が、大みそかのNHK紅白歌合戦に初出場する。前身のアイドル時代を含めれば約15年のキャリアを持つ苦労人。早世した母と二代にわたる夢をかなえ、天国に歌声をささげる。ひのき舞台を踏むまでのドラマを聞けば、笑いあり、涙ありのジェットコースター人生。年末を彩る新星に迫った。
紅白出場の吉報は、発表当日に聞いた。丘の脳裏には感謝の文字と母の顔が浮かんだ。
「自分は好きな歌を歌っているだけで何も変わっていないのに、周りの方が『なんとか紅白へ』と支えてくれた結果。ありがたいなと思いました。母に見てもらえなかった心残りはありますが、天国から1番近くで見守ってくれると思います」
山あり谷ありの歌手人生だ。人見知りを直すため、5歳で民謡教室に通い始め、小5のときにコンクールで優勝した。小室哲哉やSPEEDが音楽シーンの中心にいた時代。憧れは鳥羽一郎だった。
「人と変わったことをすると褒めてくれる母だったんです。みんながJ-POP、私が演歌を歌う環境が、母には『ええやん!』みたいな感じでした」
高校3年の頃、買ったオーディション雑誌の1ページ目でアイドルを募集していた。とにかく歌手になりたいと水着で「亜麻色の髪の乙女」を熱唱し、見事に合格した。
待っていたのは、ロケでのバンジージャンプ、海へのダイブ。「合格したとき『あなたは体を張って、いっぱいしゃべりましょう。スタイルがいいわけでも、時にかわいいわけでもないから』と言われて。警察犬に追われて『死ぬ、死ぬ~』みたいなロケをやってました」と苦笑いする。鬼ディレクターにたたき込まれた「泣くな」「血は見せるな」「なんでも3秒で答えろ」の三カ条は、今でも守っている。
「思い描いていた未来とは違ったけど楽しかった」と振り返るアイドルは約1年で巣立った。「高校を卒業して、ふと立ち止まったときに、演歌歌手になりたいと改めて思ったんです」。音楽の専門学校に入学。在学中に出演したカラオケ番組がきっかけで、05年、待望のデビューが決まった。衣装は、ヘソ出しミニスカだった。
当時の社長いわく「そんなに歌もうまくないから、とにかくインパクト!!」。ぴかぴかの新人。キャンペーンはもっぱらスナックだった。まだ20歳。酔客のヤジが刺さった。演歌ファンには「そんな格好で歌うものじゃない」と批判された。苦悩の日々の中で、デビューから半年後、母が倒れた。がんだった。
「余命半年と言われました。母に『紅白に出るような歌手になるから、もう少し頑張ってね』と言って『分かった』って…。立ち会いはできました。『仕事、諦めんと頑張らんといかんで』と最後まで人の心配をしている母でした」。06年のクリスマスイブ、47歳での早世だった。
翌07年に2枚目のシングルをリリース。母との約束を果たそうと気合を入れるが、その後も一向に結果はでなかった。気付けばデビューから10年、30歳。「ずっと大阪で1人暮らしをしてたんですが、本当に変化がなくて、もうやめようと思って社長に言いました。やめる日も決めていたんです」。でも、演歌の神様は気まぐれだ。
「『失うものがないから楽しむぞ~』みたいな感じ」と肩の力を抜いたら、NHK「歌謡コンサート」で歌うチャンスを得た。引退するはずの日の直前。九回裏のホームランが、東京の事務所関係者の目に留まった。
「『引退撤回!!』って。社長も『そうやな。いい話があるなら行き!!』と言ってくれました」。事務所もレコード会社も替え、上京。大きな転機となり、美形のルックスと民謡仕込みの歌唱力でじわじわと人気を拡大していった。
「母は自分も歌手になりたかったみたいで、芸能界への憧れは私以上にありました。『スター誕生』に応募して、書類合格して、私のおばあちゃんに反対されたそうです。厳しい母だったけど『紅白に出たよ』って報告は褒めてくれるんじゃないかと思います」
犬に追いかけられ、ミニスカに泣き、母と別れた日々のすべてが、紅白に結実した。丘の歌声には、ドラマが詰まっている。