BRAHMAN・TOSHI-LOW語る(3)「満月の夕」と震災(前)

 4人組ロックバンド「BRAHMAN(ブラフマン)」が今年2月、5年ぶりのフルアルバム「梵唄-bonbai」をリリースし、3月から約3カ月間の全国ツアーを行っている。

 BRAHMANは東日本大震災の発生後、いち早く、そして今に至るまで被災地に足を運んで、精力的な支援活動を続けてきた。

 「梵唄」には阪神・淡路大震災から生まれ、災害の死者への鎮魂歌として、また被災者に寄り添い励ます歌として世界中で歌われるようになった「満月の夕」(ソウルフラワー・ユニオン、HEATWAVE)のカバーと、BRAHMANが東日本大震災から生み出した「ナミノウタゲ」を収録。「満月の夕」には作者の中川敬(ソウルフラワー・ユニオン)と山口洋(HEATWAVE)が参加している。

 ボーカルのTOSHI-LOWインタビュー(3)は、「満月の夕」と東日本大震災について語る前編。

  ◇  ◇

 -「梵唄」には「満月の夕」が収録されています。

 「あの曲こそが実は震災の被害なんじゃないかなと思っていて。被災地を助けるために、みたいな曲だと(世間では)思っているけど、あれ、Aメロができてからサビ作ってる間に1月17日(阪神・淡路大震災)が起きてしまって、それで勝手に中川が被災地のじいちゃんたちの前であの曲を作り上げて、山口洋はそれを聞いてなくて、だけれども、もちろんそういう使い方をするんならしょうがないと思って、自分の意見を少し下げて『満月の夕』ができて。くしくも2バージョン生んでしまった。

 だけども2つあることで、がれきの内側から見た月と、がれきの外側から見てる月を包括できるような月を生んだ。その2つは本当は1つになるはずだったんじゃないかなと思いまして。

 東北で自分が弾き語りを歌う時に、2人に相談せず勝手に歌詞を混ぜて、歌うべきだと俺は思っていて。阪神・淡路と東日本で歌われるべき満月はやっぱ違うと思っていて。2つを1つにするためにもちろん2人の力も必要で、2人を参加させて、1つの『満月の夕』を、自分たちの代の『満月の夕』にしたかったですね」

 「満月の夕」ができた経緯について、中川と山口の説明は異なっている。中川が山口と曲を作り始めたのは震災後だとしているのに対し、山口は震災前にイントロ、Aメロ、ブリッジを共作し、震災後に中川がサビを作って被災地で歌い始めたとしている。

 関西在住で阪神・淡路大震災を経験し、積極的に被災地を回って歌で被災者を慰撫(いぶ)し、励ました中川と、当時は東京在住で、被災地に入って支援を行ったものの、被災地とは距離があった山口、その立場の違いは、双方の歌詞の違いに現れている。BRAHMANのカバーは双方の歌詞をミックスさせている。

 -それが今のタイミングだったのは。

 「例えば俺が福島で、BRAHMANを知らないじいちゃんばあちゃんの前で歌って、『いい歌だね』って言われるんですよね。その時に、俺は『はいオリジナルです』ってウソをつくんですけど(笑い)、誰が歌ってもいいと思うんですよ。そう歌い継がれるべき歌であって。23年前、その種を植えた人たちがいると思っていて。それを今度、自分たちは、ミュージシャンとか、ボランティア元年である95年にまいた種がたぶん俺もどっかに植わっていて、2011年の3月11日以降、じゃあバンドマンが何ができるかっていうことで、芽吹いたんだと思うんですよ。それは当たり前だけど次の代というか、この歌を誰が歌ってたかではなくて、次もしどこかで大きな震災があった時に、またミュージシャンは無力ですとか偽善だ売名だとかめんどくさいんで、その前の段階でそれは終わりにしとくから、そこからはもっとすごいことをやって、音楽が大変な人たちに寄り添って励ませばいいなということで、自分たちのバトンとして、今のタイミングで残しておこうとと思いました」

 -BRAHMANの結成は阪神・淡路大震災の発生した1995年です。当時のTOSHI-LOWさんは。

 「大学2年とか。BRAHMAN始める半年ぐらい前に震災が起きて。(東京の)弁当屋でバイトしてて、テレビ見て『大変なことになってんぞ』みたいになって。大学行ってたんで金もなかったんで、ポケットの小銭を募金箱に入れて、あとは阪神・淡路のことは何も見なかった自分もいて。『満月の夕』に関しても、自分もどっか、そういうのって売名じゃないの?みたいな気持ちもあって。

 だけど自分が東北に行った時に同じバッシングをされるわけですよね。偽善だ売名だみたいな。自分がそれに対してすごく平気だったのが、やっぱ自分が言ってた当事者だったから、その気持ちすごい分かるよ、ミュージシャンがそういうことするの嫌な気持ち、だって俺がそうだったもん。だから過去の自分に全部語りかけるというか、じゃあその自分に説得するためにはどうしたらいいか、じゃあもっと行動しよう。そいつらをねじ伏せる、自分の何もしなかった過去を悔い改めるような、そこまでやらないと自分が納得しなかったんだろうなって思うんですよ」

 -ご出身は。

 「茨城県という、アメリカで言ったらニューヨークみたいな(笑い)立派な街です」

 -ご実家では、原発事故の影響はありましたか。

 「むちゃむちゃありましたよ。親父がホウレンソウの加工業者なので。一番はじめに出荷停止食らったのはホウレンソウなんですよ。そこからの風評被害-ホントは実害なんですけど-茨城産とか、実際放射能降ってるわけですから。出荷停止になっても、すぐ(放射能は)出なくなってるんですね、数値としては。なのにそこから…。親父は、はじめの3年間は(ビジネスが)7割減みたいな。西(日本)の方は、今まで取引があったとこも全部なくなって。

 ウチの親父は東電とむちゃむちゃケンカして。送られてくる分厚い、お金もらえるっていうやつ(書類)も、辞書にも出てないような漢字で-絶対意地悪だと思うんですけど-すごい書いていて、最後ハンコ押せばちょっと金もらえる。ウチの親父はそれ全部読んで、こんな金額じゃ釣り合うわけないっつって。

 それで火ついて、今度、被災地に設備を入れるっていう、国の金が動くっていうヤツに立候補して、そんな逆境の中で工場むちゃむちゃデカくして、海外から(注文が)来て、今むちゃむちゃ売り上げ上がっちゃってる。『もうかってるわ!』って。ピンチをチャンスにする人っているんだなってビックリしましたね。ホウレンソウができない分、違う作物とか。後はしっかり安全を徹底してやって、信頼出るじゃないですか。それでどんどん増えていって、取引が。俺の年商を聞いて『そんだけしかねえのか?』っつって」

 -TOSHI-LOWさんが育ったのは。

 「子供の時ずっと海だったんですよ。(育ったのは)大洗って、おっきい漁港がある町です。俺が生まれてすぐ親父が事故して、ばあちゃんに預けられてばあちゃんに育てられたんですけど。三陸の町、3・11の後で初めて行った町もいっぱいあったんですけど、どこも懐かしいって思って。自分の持っている心の情景みたいなもの、ばあちゃんに抱っこされて市場の周りを見て、潮の匂いと魚の生臭ぇ匂いと、俺も忘れてたんですけど、『あ、ふるさとだあ』って思ったのも、ずっと関われた理由なのかな。ふるさとは変わんないじゃないですか」

 -「満月の夕」を歌うようになったのは東日本大震災からですか。

 「その時です。(岩手県)宮古市の下に山田町っていうのがあるんですけど、そこ行った時に、そこは燃えてしまったんですね。物資を置いて、俺たちをよく見に来てくれてた、有線のスピーカーを取り付けする友達というか、その子が流された現場に行こうって言って、そこを見に行ったら、焼けただれた町のど真ん中で、自分の中でもこの曲が特別好きなわけじゃなかったのに、封印してた曲だったのに、頭の中で流れてきたんですね。

 なのでこれを歌ってみたいというか、要はその町の中で、自分もこの日が最後だとしたら何をしたいかなと思ったら、歌を歌ってみたいなと思って。その時に頭の中で流れてきたメロディーがこの歌だったんですよ。どっちかと言ったら俺、パフォーマンスとしてのバンドというか、そういうものは得意なんですけど、歌と向かい合ったことがなかったので、ソウルフラワー・ユニオンのうつみようこ(※『梵唄』の『満月の夕』にも参加)がボイトレをやってるというので、東京に帰ったら初めて歌を習って、歌えるようにしようと思ったのがきっかけというか。初めてです、ホントに歌と向かい合ったのは。(東日本大震災)直後の話ですね」

 -ソウルフラワーを歌ってみたいという思いはそれまでなかったんでしょうか。

 「ニューエスト・モデル(ソウルフラワーの前身)は好きだったんですよ、すごい。ガキの頃に、大学生の友達とかがいて、高校の頃に。ライブハウスにたまってる全員パンクスの集団だったんですけど、大学生の人たちがすごいニューエスト・モデルを聴いて、これ聴いた方がいいよと言って。こっちはビートパンクみたいな、ブルーハーツとかジュンスカ(JUN SKY WALKER(S))とか聴いてるとこに、ニューエスト聴いてみなみたいな感じでもらって。ちょっと知的っていうか、そういう感じがしていて、すごく好きだった。ソウルフラワーになってからはそんなに追っかけてなかったっていうのと、阪神・淡路の活動を見てみないフリしてたのかなというのを今となっては思います」

 -中川さん、山口さんとは今回のレコーディングの前に、NHKの音楽番組や猪苗代のイベントでも一緒に「満月の夕」をやっています。中川さんと交流ができたのは。

 「原爆オナニーズかなんかのライブでウチとGAUZEとソウルフラワーと一緒にやってたので、10何年前から話はしてたんですよ」

 -山口さんとは。

 「池畑潤二(ルースターズのドラマー)のセッションとかでけっこうやってたりしたので、そのぐらいじゃないですかね。山口洋は震災後ですね。あの人も相馬の方に独自の支援とかしてたから。会った時にも『知ってるよ、TOSHI-LOWだろ?』って、すぐ声かけてくれた感じもあった」

 -中川さん、山口さんと『満月の夕』をやったのは2015年のNHKが初めてだと思いますが、2人の反応はどうでしたか。

 「2015年のNHKですね。ホントにドッキリみたいな感じだったんで。山口洋に至ってはたぶん『満月の夕』を封印しかけてた時というか、もういいよあの曲はみたいな感じになってたんじゃないかな。でもホントにドッキリみたいな形であの場で来てもらって、『満月の夕』やるよっていう。お互いには声かけてて、お互いが来るとは知らなかったのかな。知らないってことはないと思うんですけどね。雰囲気で分かるというか。TOSHI-LOW言うんだったら乗ってやるわという気もする。でも緊張感がありましたけど。どっちかが怒って帰っちゃうんじゃないかっていう」

 -終わった後は。

 「音楽的には2人とも認め合ってる人たちだから、現場的には楽しかったって」

      (続く)

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