宮崎駿監督「師匠であり先輩でありライバル」 高畑勲さん「お別れの会」3200人

 「火垂(ほた)るの墓」や「アルプスの少女ハイジ」など数々の名作を手掛け、4月5日に肺がんのため死去したアニメーション映画監督の高畑勲(たかはた・いさお)さんの「お別れの会」が15日、東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれ、山田洋次監督(86)ら約1200人の関係者が参列した。1985年に高畑さんとともにスタジオジブリを設立した宮崎駿監督(77)は盟友に涙ながらに別れのあいさつを行った。また、外国人を含む2000人のファンが弔問に訪れた。

 涙をこらえることができなかった。「95歳まで生きると思い込んでいた」という盟友を亡くした喪失感。宮崎監督は、「今でもよく覚えている」という55年前、1963年の、バス停での「ぱくさん」こと高畑さんとの出会いから振り返った。9年前には共通の主治医から「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」と言われ、鈴木敏夫スタジオジブリ代表取締役プロデューサー(69)とともに頼み込んだこともあったという。

 自身も携わり、高畑さんが劇場用長編アニメ初監督を務めた東映動画時代の「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68年公開)の製作期間が延びに延びた思い出を語るうちに、何度も言葉に詰まり、涙声になった。宮崎監督は最後に「ありがとう、ぱくさん。55年前に…、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたぱくさんのことを忘れない。どうもすみません…」と絞り出した。

 涙のあいさつの後、宮崎監督は「オレ、みっともなかった?」と鈴木氏に聞いてきたという。「そんなことない」と返した鈴木氏は、宮崎監督から見た高畑さんについて「師匠であり、先輩であり、友人であり、ライバル。高畑さんがいたから宮崎は頑張れたし、宮崎がいたから高畑さんが頑張れた」と説明。最高の能力を持った2人が切磋琢磨(せっさたくま)したことで、日本のアニメーションが繁栄を迎えた。この日の文面は委員長を務めた宮崎監督が約1カ月間、考えて練り上げたものだったという。予行演習から涙ぐんでいた宮崎監督が、盟友に精いっぱい届けた思いだった。高畑さんの祭壇には2000本の花が飾られ、遺影は家族が選んだ2010年撮影のほほ笑んでいるものだった。

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