安部譲二さん 日航パーサーとやくざの“二刀流”デイリー連載回想録で振り返る歩み
ベストセラー小説「塀の中の懲りない面々」(1986年)で一世を風靡し、デイリースポーツで92~2009年に「懲りない編集長」を務めた作家の安部譲二(あべ・じょうじ、本名直也=なおや)さんが2日午前1時18分、急性肺炎のため東京都内の自宅で死去していたことが8日、発表された。82歳。東京都出身。葬儀・告別式は7日、親族のみで営まれた。喪主は妻美智子(みちこ)さん(65)。お別れの会は、本人の希望で行わない。
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安部さんはデイリースポーツに2009年10月から10年12月まで、回想録「書かずに死ねるか!!」を連載した。
それによると、安部さんは少年時代からばくち好きで、14歳で後に映画スターとなる安藤昇率いる東興業(安藤組)に出入りし、17歳で盃をもらって331人目の若い衆になった。大幹部である阿部錦吾の舎弟でもあった。在籍は昭和26~39年。69年には小金井一家にヘッドハンティングされ、やくざに戻っている。
1945年からの野球好きで、55年には大毎(現ロッテ)の入団テストを受け、安藤組でも野球チームを結成したほど。草野球の東京ライターズでは佐々木信也、キノトール、三木鶏郎・鮎郎兄弟、神吉拓郎、森山周一郎、飯田久彦、笈田敏夫らとプレーした。阪神ファンで、江夏豊とは長く親交があった。
54年、事件を起こして英ロンドンに渡り、朝日新聞の支局勤めを経験。越路吹雪や徳川夢声を案内した。
60年には日本航空に就職し、やくざとパーサーの二足わらじを履いた。当時の安部さんをモデルにした小説が三島由紀夫の「複雑な彼」で、1966年に田宮二郎主演で映画化(大映)された。
格闘技とも縁が深く、高校時代はボクシング部で、英国でもボクサーとして活躍。米倉健司やガッツ石松とも親しかった。安藤組時代は力道山にかわいがられ、プロレスラーにスカウトされたこともある。また、日本テレビのキックボクシング中継開始に一役買い、解説者も務めた。
実業家としては1960年代にはレストラン、バー、喫茶店などを経営。青山で経営したレストラン「サウサリト」には安藤の弟分だった菅原文太が毎日来店した。68年には安藤昇からレストラン「アスコット」を譲り受け、青山ロブロイと改め開店。山下洋輔、笠井紀美子、三上寛らがジャズを演奏した。また、当時15歳の矢野顕子がピアノを弾き、矢野は赤坂の安部宅に居候していた。
服役後の81年、堅気になり、83年、作家を志す。講談社「IN POCKET」に短編小説を書くようになり、山本夏彦から雑誌「室内」への連載をオファーされ、弟子入りした。この連載が文芸春秋から「塀の中の懲りない面々」として出版され、ベストセラーに。時の人になる。
なお、中学時代は江戸川乱歩の「宝石」に投稿したことがきっかけで今日出海に師事。作家として売れるまでは競馬予想屋で、その経験を生かした「極道の恩返し・安部譲二ワルの馬券術」は60万部を売り上げた。(敬称略)