震災から25年 人気蕎麦店社長が語る「優しさ」と「誇り」
6434人の命を奪った阪神・淡路大震災の発生から25年を迎えた17日、特に甚大な被害を受けた神戸市長田区で、同区の名物「ぼっかけそば」の炊き出しが行われた。タレントの松村邦洋(52)らも参加して行われた炊き出しを行ったのが、神戸と東京に3店舗のそば店を経営する後藤雄一氏(49)だ。
後藤氏は震災発生当時、神戸市の隣、芦屋市に在住。「最初は戦争やと思いました」という衝撃で、自宅は全壊した。義父が経営する弁当店で働き始めて、わずか1週間での被災。関西地区で40店舗近くを運営していたが、被災のダメージに耐えきれず、閉店することに。一家を支えるため、1999年4月、後藤氏は神戸・三宮に蕎麦カフェ「四季愛菜ダイニング」をオープンさせた。
震災当日、芦屋から神戸の義父の家まで向かう途中の思いを、後藤氏は振り返った。「(電車が動かず)三宮まで行かれへんから、隣のおばちゃんに原チャリ借りて、三宮に行くまでが“地獄絵図”でした…。道には布団が並んで、大きなビルや百貨店が倒れて、ガス臭いし…」。大都市・神戸が、完全に崩壊した姿だった。
ただその中に、後藤氏は人間の“希望”も見いだしていた。「僕の周囲は、震災で亡くなった方はいなかったんです。だから言えるのかもしれないけど、三宮まで行く道中、人の優しさをメチャメチャ感じたんですよ。最近は『あおり運転』なんて話題ですけど、そんなこと一切なく、みんなそれぞれがものすごく大変なのに、それでも道を譲り合う心があってみんなが優しかった」という。傷だらけの中で、人と人とのつながりのありがたさを痛感した。
「四季愛菜ダイニング」のオープンも、人の縁が大きく影響した。義父が経営していた弁当店に関わっていた、料理研究家・土井勝氏の長男・土井敏久氏に「これからはそばが面白い。十割そばを職人なしで作れる機械がある」と持ちかけられた。後藤氏は「そばは当時、特に関西では『オヤジの食べ物』だったから、若者向けにパスタみたいな感じで出したらいいんちゃうかなと。とりあえず何かやるしかなかったのでね」と述懐した。
十割そばはヒットし、経営は順調に推移。13年には同じく三宮にそばと天ぷらの店「ISOGAMI FRY BAR」をオープンさせた。そして震災から20年を迎えた15年1月、「忙しくて、店で寝て帰るような生活をしていて、気がついたら1月16日の夜やった」という。復興祈念の集いが行われる三宮・東遊園地の近隣だったため、集いに向かう人の姿が多く見られた。その時「あかんあかん、俺は何か忘れてるんちゃうか、と思った」。
そこで思い出したのが、震災当日に感じた、人の優しさだった。「俺にできること、何かないかなと思って、ランチのお客さんを全員、無料にしたんです。あの時、みんなに優しくしてもらったし、みんなも優しくした記憶があると思う。それをふと、思い出すきっかけになればと」。
その思いが、今回の炊き出しにもつながっている。「こういうのを仕事にからめるのは、本当は好きではないんです」と笑いつつも、「そばっていうのは年越しそばにもあるように縁起のいい物で、その中に『つながる』というワードがある。そば粉から麺になるために、互いを何とかつなげようという努力を、日々そばはしている。だから震災復興の象徴としてはそばがいいんじゃないかと」。旧知の間柄だったイベント主催者に意志を伝え、実現に至った。
震災発生から25年。物事を忘却してしまうには、十分な時が流れた。後藤氏は言う。「僕が生まれたのは昭和45年。ちょうど戦後25年なんです。当時は『戦後何年生まれ』が1つの区切りだった。今の子たちの区切りは、『震災前』とか『平成』とかかな。25年というのは、そういう区切りにはなるんでしょうね」。
つらく悲しい経験であったことは間違いない。だがその区切りは、後藤氏の中に大きな自信も植え付けた。「あの震災を経験したから、経験して超えたから、どこかにその強さがある。戦争を経験した方たちも、底知れぬ強さがあるじゃないですか。それは何となく自分の中にあると思ってます。どんなピンチでも、あれを乗り越えたから大丈夫やろ、という自信にはなってますね」と、少し誇らしげに笑った。
三宮の2店舗に加え、16年4月には東京の激戦区・恵比寿に「EBISU FRY BAR」をオープン。3店舗ともたびたびメディアで紹介され、若者を中心とした人気店となっている。震災をきっかけに設立した店が、四半世紀を経て震災を知らない世代に支持されている。そうした後藤氏の夢の結実が、炊き出しに用いられたそばの一杯一杯に込められていた。