山本寛斎さん、逝く ファッション、イベント界の革命児…日本の美を世界に発信
国際的なファッションデザイナーでイベントプロデューサーとしても活躍した山本寛斎(やまもと・かんさい)さんが、急性骨髄性白血病のため21日に死去していたことが27日、分かった。76歳。横浜市出身。葬儀は親族のみで執り行った。「お別れ会」は新型コロナウイルスの感染状況を鑑みて後日に予定。寛斎さんが手掛けた31日の配信イベント「日本元気プロジェクト2020スーパーエネルギー!!」は、予定通り開催される。
独創的なセンスでファッション界に革命を起こした寛斎さんは、日本の美を世界に発信し続けてきた。今年2月に急性骨髄性白血病の診断を受けて、3月には「『スーパー元気な山本寛斎』になって必ず戻ってきます!」と病名を公表。関係者によると、入院先からスタッフに指示を送って31日の配信イベントの準備を進めていたというが、志半ばで力尽きた。
寛斎さんの娘で、女優の山本未來(45)が自身のインスタグラムで訃報を伝えた。未來ら家族にみとられて、寛斎さんは息を引き取ったという。「私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした」。笑顔の寛斎さんや親子2ショットの画像も公開した。
実家が洋服の仕立屋だった寛斎さんは、日大英文科を中退後、デザイナーのコシノジュンコさん(80)に師事。1967年に若手の登竜門「装苑賞」を受賞した。71年には日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催し、歌舞伎の要素をデザインに取り入れた。74年からパリ、79年からニューヨークのそれぞれコレクションに参加。エルトン・ジョンら大物スターと交流を深め、デビッド・ボウイにはステージ衣装を提供した。
イベントプロデューサーとしても手腕を発揮。93年にはモスクワ「赤の広場」での「スーパーショー」に12万人を動員し、05年愛知万博の開幕イベントも担当した。特急「京成スカイライナー」の新型車両デザインを手掛けるなど、活躍は多岐に渡った。
闘病中も「ファッションは人を元気にするチカラがある!!」と自ら鼓舞していた寛斎さん。未來はインスタで、「『KANSAI SUPER STUDIO』にて父・寛斎の『元気』をスタッフと共に継承していきたい」と“跡継ぎ”を宣言した。寛斎ワールドは生き続ける。