ジャニーズ帝国の“立役者” マッチの功績を振り返る
歌手の近藤真彦(56)が30日、この日をもってのジャニーズ事務所退所を電撃発表した。「スニーカーぶる~す」「ギンギラギンにさりげなく」などヒット曲を連発し、1980年代にトップアイドルとして一時代を築いたマッチ。事務所の“長男”の役割を終え、今後は自身が監督を務めるレーシングチーム「KONDO RACING」の運営会社を窓口に芸能とレースの道を歩んでいく。
ジャニーズの“長男”として長年、君臨してきた近藤。不動のジャニーズ帝国を築いた“立役者”でもあった。
ジャニーズ事務所は1962年に創業し初代ジャニーズ、フォーリーブスなどを輩出してきた。しかし、その後、グループは解散。新たなスターの出現が望まれていた。そんな折、近藤は79年に田原俊彦(60)、野村義男(56)とともに出演したドラマ「3年B組金八先生」で注目を浴びる。3人は「たのきんトリオ」として爆発的な人気を誇り、一気にスターダムにのし上がった。
80年に「スニーカーぶる~す」で歌手デビューすると、いきなりミリオンヒットを記録。100万枚突破は当時ジャニーズ事務所史上初の快挙となった。以降、「ハイティーン☆ブギ」「ブルージーンズメモリー」などヒット曲を次々に連発。「ザ・ベストテン」などの音楽番組の常連となった。81年に代表曲「ギンギラギンにさりげなく」で「レコード大賞最優秀新人賞」、87年には「愚か者」で「レコード大賞」を受賞するなど、80年代を代表するトップアイドルとして一時代を築いた。NHK「紅白歌合戦」出場は10回を誇る。
事務所も近藤を功労者として認め、年齢を重ねるとともに、ジャニーズの象徴的存在となっていった。近年はレース活動に軸足を置いていたが、2019年に死去した、ジャニー喜多川前社長のお別れの会では最年長として所属タレント80人超を代表して弔辞を述べるなど、改めて存在感を発揮していた。
昨年は歌手デビュー40周年。メモリアルイヤーを記念しコンサートツアーを大々的に行う予定だったが、コロナ禍で中止となり、歌声を届けることはできなかった。