小澤征爾さん死去 世界的指揮者 88歳、心不全 08年文化勲章 晩年は降板と復帰繰り返す

 米ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるなど国際的に活躍した世界的指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全のため東京都内の自宅で死去したことが9日、分かった。88歳。所属事務所が発表した。旧満州(現・中国東北部)生まれ。故人の遺志により、葬儀は近親者のみで行われ、後日、お別れの会を検討しているという。

 「世界のオザワ」が旅立った。

 小澤さんは1935年に旧満州で生まれ、41年に日本へ帰国。幼い頃からピアノを習い、桐朋学園で斎藤秀雄に指揮法を学んだ。短期大卒業後の59年に渡仏し、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。カラヤンやバーンスタインに師事した。

 61年にニューヨーク・フィルの副指揮者を務め、62年1月からサンフランシスコ交響楽団を指揮してアメリカデビュー。世界的な評価を高める一方、62年にはNHK交響楽団の団員が小澤さんの方針に反発。リハーサルをボイコットする事件が起こり、海外に軸足を移す転機となった。

 73年には、ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任し、29年にわたって歴任した。「聴く人を感動させる美しい音楽は、沈んでいく夕日を見たときのような悲しい味がするんです」などの言葉を残し、独特の感性で海を越えて指揮を続けた。

 02年には、クラシック音楽界の重要ポストの1つ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。アジア人として初の快挙だったが、ひょうひょうとした日常生活、気さくな人柄はそれまで通り。街で握手や質問攻めにあっても気軽に応じた。明るい性格は交友関係の広さにも表れ、作家の村上春樹氏やファッションデザイナーの森英恵さんらと交流で知られた。

 08年に文化勲章を受章するが、10年に食道がんの摘出手術。12年3月からは1年間休養するなど、晩年は降板と復帰を繰り返した。それでも音楽への情熱はなくならず、16年には米グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞。「子供たちのための音楽塾などをやっていきたい」と話すなど、後進育成にも尽力した。

 最後の指揮は、2022年11月に国際宇宙ステーションにいる若田光一飛行士に届けたオーケストラ演奏。23年9月2日に行われた「セイジ・オザワ松本フェスティバル」のカーテンコールに車イス姿で登場したのが最後の公の場となった。

 ◆小澤征爾(おざわ・せいじ)1935年9月1日生まれ。中国・瀋陽(旧奉天)出身。幼いころからピアノを学び、高校時代に齋藤秀雄に指揮を学んだ。59年にブザンソン指揮者コンクールで第1位獲得。73年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任して29年間務めた。08年には文化勲章を受章。

 ◇黒柳徹子「残念!小澤さんは、世界的な指揮者でした。私の父がヴァイオリニストで、一緒に弦楽四重奏をやってたチェロの齋藤秀雄さんが小澤さんの先生でした。小澤さんは齋藤秀雄さんが怖くて、今も桐朋の先生のお部屋に入ると、震えると言ってらっしゃいました。子煩悩で、息子のゆきちゃんが俳優になると言ったとき、私の楽屋まで、わざわざ小澤さんがいらして、『息子が俳優になると言ってるけど、どうしたもんだろう』と、おっしゃってました。私は『大丈夫でしょう』と言いました。俳優になって、すぐ映画に出たときは、小澤さんも一緒に試写室で、その映画を観たように思います。小澤さんの情熱は、日本の音楽を、熱くしたと思います。亡くなったこと、本当に悲しく、残念です」

 ◇安藤忠雄氏「いつ会っても自由で心優しく、大きな方だった。2人で『僕らは天から元気と自由をもらったんやから、世の中に返していかなあかん』と話したことがある。ただ僕は音楽は分からん。小澤征爾さんは『建築は分からん』と言った。でも『人の心に残るものを、つくって行こう』と誓い合った。小澤さんとの会話は、子どものための図書館をつくるなど、僕のその後の活動に大きな影響を与えてくれた。惜しい人を亡くしました」

 ◇佐渡裕氏「大きな悲しみで、ショックです。子どもの頃から憧れていて、先生がいなければ指揮者は目指さなかった」

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