【ヤマヒロのぴかッと金曜日】「司会者」「ニュースキャスター」として影響を受けた人たち
テレビは『言論機関』か『報道機関』かという議論が盛り上がった時期がある。1990年代半ばのことと記憶している。放送を取り巻く法律は当時と何ら変わっていないので「言論機関足り得ない」という意見の方が今も多いのかもしれない。
90年10月にキャスターになった私は、当初からニュースに自分の意見を挟むスタイルを取り入れていた。社内外から「あまり自分の意見を言うな」と批判の声が少なからず上がったものだ。そんな時代だった。それでも姿勢を貫いたのには二つ理由がある。
すでに先輩キャスター達がはばかることなく発言していた。新聞記者出身で経験豊富な筑紫哲也、テレビ司会者として確固たる地位を得ていた久米宏。この二人と比べることさえ不遜だと言われそうだが、若い私は大いに刺激を受けた。
「ニュース23」の筑紫は『多事総論』というTVコラムで真っ向から権力者に切り込んでいた。『大統領より信頼されるニュースアンカー』と言われた米CBSのウォルター・クロンカイトさながらに「はい、今日はこんなところです」のコメントで番組を締める姿がまぶしかった。
一方の久米はニュース番組全体を見事なまでに見やすく分かりやすく取り仕切る大司会者だった。大上段に振りかざして意見を言う前に出演者から必要な話を引き出し、最後に意見を付け加えて締めくくる。長くコメントすることもあれば、たった数秒しか言わないことも。この数秒は『久米の最後っ屁』と呼ばれ政治家を恐れさせた。
この二人から影響を受けたことが一つ目の理由。二つ目はごく基本的なものだった。知らないことがあれば、直接当事者に話を聞くということ。そうすれば、記者が原稿に書ききれないことを補足できるし、ニュースの全体像を把握しやすくなる。西成騒動に始まり、薬害事件、政治家の汚職、そして災害。
「私しか聞いていないことがあり、それを伝えることが視聴者の利益になるのであれば多少の批判など気にする必要はない」。臆するものは何もなかった。以後、取材してから本番に臨む日が続いた。
ある日の打ち合わせで、編集長から「この話もヤマヒロがずっと取材してきたネタやから、しゃべりたいんとちゃうか?40秒でどうや」と言ってもらえた時は初めて認めてもらえた気がしてうれしかった。その編集長は当初はキャスターコメントに理解を示さなかった人である。大げさなようだが本当の話だ。こうして20代から30代半ばまで、最初のキャスター時代が過ぎていった。
44歳になって再びキャスターへの打診があったのだが、その間もうひとり影響を受けた人物がいた。9日に亡くなった小倉智昭である。
続きは来週の当欄で。(敬称略)(元関西テレビアナウンサー)
◇山本 浩之(やまもと・ひろゆき) 1962年3月16日生まれ。大阪府出身。龍谷大学法学部卒業後、関西テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、情報、報道番組など幅広く活躍するが、2013年に退社。その後はフリーとなり、24年4月からMBSラジオで「ヤマヒロのぴかッとモーニング」(月~金曜日・8~10時)などを担当する。趣味は家庭菜園、ギターなど。