伝説の銀幕スター・市川雷蔵の秘話 共演の水谷八重子が明かす「美しさと暴れん坊、ヤンチャのギャップがカワイイ」

 1969年に37歳の若さで死去した銀幕のスーパースター、市川雷蔵の映画デビュー70周年を記念した映画祭「市川雷蔵映画祭 刹那のきらめき」の開催を記念して、「眠狂四郎多情剣」(1966年)や、4K修復版が上映される「新源氏物語」(1961年)など多くの映画で共演した水谷八重子(85)が12日、東京・KADOKAWAシネマ有楽町でトークショーを行い、希代の美男スターとの数々の思い出を語った。

 トークショーは水谷が雷蔵と恋の駆け引きを演じた「花の兄弟」(1961年)の上映後に行われたため、水谷は「散々若い時を見せて、そして今っていうのはとってもイヤですね。でもそれが現実。(美しいままで)逝っちゃった雷ちゃん幸せ」と笑わせた。

 【雷蔵の優しさ】

 「花の兄弟」の前に同じく雷蔵、水谷、橋幸夫で共演した「おけさ唄えば」(1961年)の撮影時、売り出し中とあって休みなく取材を受けている橋に、雷蔵は「かわいそうだなあ、まだ19、大変だろうなあ、よく頑張ってるなあ」と同情。メークを直す時間もない橋に自身のお抱えメーク師を付きっきりにして「まるで自分のお子さんのように面倒を見てらっしゃいました」という。

 【雷蔵のイタズラ】

 そんな雷蔵は「優しいけど悪い人」でもあったといい、いたずらなエピソードを披露。

 「立ち回りなんかやっていると、軽くポンポンポンと合わせて、そのつもりで周りの剣友会の方も合わせていると、突然一人だけバツーン!と来たり。それもしっかり帯の間に入りますから。ものすごいお上手ですから、立ち回りが。できちゃうからそういうイタズラできるんですよ。技付きのイタズラです」

 水谷も例外ではなく、新橋演舞場に出演した際に突然、雷蔵が見に来て楽屋を訪れ、「帰りに何か食べに行こうか」、「行く行く、待ってて、着替えるから」という話になった。雷蔵は来客用のソファで待ち、水谷は屏風の向こうでジーンズに着替えていた。

 突然、雷蔵の声が聞こえなくなり、水谷が「雷ちゃん、どこ?」と言うと、「ここにいるよ」といつの間にか雷蔵が後ろにいて「お尻全部見られちゃった」という。水谷は「見ちゃダメでしょ、そんなの!」と言いつつも破顔一笑だった。

 【酒豪だった雷蔵】

 素顔の雷蔵はイタズラ好きであるとともに、「ヒマがあるとバット振ってらっしゃるし」、「早起きして野球の試合をしてらした」という野球好きで、「どんなお酒を飲ましても強い。全然効かない」という酒豪でもあった。

 雷蔵と並び称された勝新太郎は、自分が「いつも宴会でベロベロになっちゃう」のに対し、雷蔵が「まるで証券マンみたいな顔をしてスーッとしてるの。変わってない」のが「許せない。我慢できない」と考え、「1回ベロベロになったところを見たい」と水谷に息巻いたことがあった。

 「良重、付き合え」と伝説の店「おそめ」に行って「一番強い酒をつくってください」と依頼。アブサンやブランデー、ジンなどを混ぜた「恐ろしいお酒」をつくらせ、勝用には薄い水割りをつくって、ホステスに持たせて「良重からで~す、どうぞ乾杯してください」と雷蔵にすすめた。

 勝は「雷ちゃん乾杯乾杯」と4~5回繰り返したが、雷蔵は「全く変わらない」まま。勝は「ベロベロ。もうロレツも回らないし、倒れてました」という。俳優としては好敵手だったが、酒では雷蔵の圧勝だった。

 【雷蔵の美しさ】

 水谷は雷蔵の美しさについて、メークの秘密を明かした。

 「雷蔵さんはつけまつげを付けると、目がコキーンと、まぶたが奥に引っ込んじゃう。外国人みたい。まつげをびゅっと取るとペロンって、普通の日本人のまぶたになる。そこにメガネかけちゃったら、どこの誰だか分かんない。『新源氏物語』よくご覧になってください、ここ(まぶた)が外国人のように落ちてます。本当にキレイ」

 「新源氏物語」では雷蔵が光源氏役、水谷が末摘花役を演じており、雷蔵の衣装も見ものだ。

 「ファッションショーのようにいろんな色のいろんな織物をお召しになってらっしゃるけど、どれ一つとして似合わない物がないのねえ。憎らしいほどないの。全部似合っちゃう、本当に。まさに(光の君)。どの角度からでもとってもキレイでしたねえ」

 とはいえ、雷蔵に見とれていただけではなく、「次のセリフを考えていた。現実的です」と、仕事優先だったという。

 また、雷蔵は「本当に脚がキレイ。脚の長さ、バランスの良さが最高でした」とも振り返った。

 【大映】

 雷蔵は歌舞伎から映画界に転じ、亡くなるまで大映所属だった。後に大映を代表する名匠となる池広一夫監督は、「おけさ唄えば」では助監督で、「花の兄弟」が監督昇進2作目だった。

 水谷は「私が『お願い、撮り直してくれる?今のところ』と言ったら、『良重(当時の芸名は水谷良重)、堪忍しておくれよ。まだね、僕みたいなぺーぺーがね、尺(フィルムの長さ)もらえないから、堪忍してくれよ』と言って、撮り直しをしてくださらなかったんですね。セコいなあ、映画って。思い切り回させてあげればいいのにって思いました」と、池広監督が新人時代の思い出を明かした。

 大映は「非常に家族的なところ」だったといい、「夜遅くなると床山さんの電熱器を作って、殺陣師の方がお汁粉を作ってくださるんですよ。夜遅くなると、甘い物がないと体がもたないでしょってお汁粉を食べさせてくれる。最高にうれしかった。そういう家族的な撮影所でした」と、その社風を証言した。

 しんどいこともあった。当時は電柱やアンテナがない自衛隊の滋賀・饗庭野演習場でのロケが多く、「寒くってつらくってヤなとこよ~。饗庭野に1回は行ってれば、映画女優の一人かなって思ってもらえるぐらいの頻度で行くところなんです。私は寒い時ばっかりでした」と、時を経てぼやいた。そんな極寒ロケでも「雷蔵さんはビクともしてらっしゃらなかった」という。

 【雷蔵の死】

 雷蔵は晩年、雷蔵は明治座に出演することが決まっていた。演目は「たぶん『切られ与三郎』をなさるはずだった」と、水谷は回想する。ポスターも撮影していたが、雷蔵のがんが判明し、大映の永田雅一社長が「舞台じゃ残らないじゃないか。映画を撮って残そう」と、明治座出演を「とにかく出さないの一点張り」でストップ。明治座出演は幻に終わった。

 その写真を明治座の宣伝部員が「こんなにキレイな写真撮ったのに、いらなくなっちゃったんだってさあ!」と水谷の前で廃棄。水谷は「キレイなのにもったいない、これ私もらっとく」と持ち帰った。

 貴重な写真だが、水谷は引っ越しで紛失してしまったという。「雷蔵さんも、幻の舞台だったから、きっと残さないでくれっておっしゃったのかもしれない。今はそう思っています」と、しみじみと述懐した。

 水谷は雷蔵の魅力を「美しさ。そのくせ普段は普通の暴れん坊、やんちゃ坊主。ギャップがカワイイ」といい、「だから、トシを取った姿を神様が見せないようになすったんでしょう」と、今では夭折を受け入れているようだ。

 37歳という若さ、俳優として脂が乗りきったところだっただけに、今も早すぎる死が惜しまれる雷蔵だが、水谷は「生きてちゃいけない人なのかもしれない。こんなキレイなんだもん。トシ取って見たくないですよね。雷蔵さん、いつまでもこの若さ、この美しさ、これでいなくちゃいけないんじゃないか、神様がそう決めたんじゃないか、そんなふうに思います」と語っていた。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

芸能最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング(芸能)

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス