平松愛理 倒壊した実家へ向かう道中に一輪の花 私の歌が神戸にとってこういう存在であれば #阪神淡路大震災から30年
神戸市須磨区出身のシンガー・ソングライターの平松愛理(60)が、阪神・淡路大震災の復興支援を目的としたメモリアルライブ「1・17 KOBE MEETING~あれから30年~」(17日・神戸煉瓦倉庫 K-wave)を5年ぶりに開催する。震災当時、自身は被災を免れたものの、神戸市須磨区の実家は倒壊、変わり果てた故郷の姿は今もなお脳裏に焼き付く。震災から節目を迎えた今、5年ぶりの再開、そして地元・神戸への思いを語った。
2020年を「最終公演」としていたライブの再開について、平松は「理由はなくて、目標があるだけなんです」と、静かな口調で語った。
30年前、地震発生の瞬間は都内の自宅で就寝中だった。「私は被災していない」という若干の負い目を感じながら「あの日、何があって、どんなことを見て、何をして、どうなったか、は被災した方しか語れない。30年前のことを思い出していただくのはすごくつらいこと。でも、私は語り部になっていただきたい」と、「目標」を口にする。
30年前の変わり果てた故郷の姿は、今もはっきり思い出せる。地震発生から約1カ月後、荒れ果てた三宮を歩くと「映画のワンシーンを見ているような感覚」に陥った。「液状化した地面から粉じんが立ちこめ、神戸から色が消えた。これだけ人がいるのに、マスクをして誰も話さない、声が聞こえない。スニーカーが砂を踏む、ざっざって音だけ。映画で見た、兵隊さんの行進のような。それしかなかった」と、記憶の中の光景は未だ生々しい。
そこで被災者からかけられた「平松さんは歌で神戸を励ましてください」という言葉が、ライブのきっかけとなり、須磨区の実家へ向かう道中で出会った一輪の花がその思いを加速させた。「全部モノクロの世界で、そのお花だけ鮮やかに色づいていて、何かに救われたような思いがしたんです。それで、私の歌が神戸にとってこういう存在であればいいなって。見ても通り過ぎる人、見ずに通り過ぎる人、見てホッとする人もいる、そういう歌でありたい」。その思いは時間が経過しても変わらず、むしろ「研ぎ澄まされている」という。
震災から30年を迎えるにあたり、当初はライブを行うつもりはなかった。「ちょっと1、2曲歌わせていただければ、と、弱気な感じで」担当者に連絡を取ったが、直後に心境が一変。「1月17日、30年を迎える神戸で私はどういう過ごし方をするんだろう、チラッと歌うとか、ちょっとしゃべるとかでいいのかな、と思ったときに、マグマのような感情が一気にスパークして。私がやらないでどうする、という気持ちが湧いた」と、決断した。
発生から30年、震災を経験していない世代も増え、被災者と間近で接してきた平松は「25年を過ぎると風化という言葉を通り越した次の段階に入ってきた」と、語り継ぐことの難しさを実感している。「誤解を生むと思うけど、『節目』って記憶にとどめる必要がある、ということを呼びかけるチャンスでもある」と、今後の活動への決意を込めた。
そんな中で自分にできることはやはり音楽だった。自身の歌を「語り部」となってもらうための一助に。「原動力となるものを、一瞬でもいいから、このライブで見つけて欲しい」と心から願う。「私には音楽しかない」。30年前から変わらぬ思いと、自分なりのやり方で故郷のために歌い続ける。
◆平松愛理(ひらまつ・えり)1964年3月8日生まれ、兵庫県神戸市出身。89年2月にアルバム「TREASURE」と、シングル「青春のアルバム」でデビュー。92年「部屋とYシャツと私」が大ヒットし、日本レコード大賞作詞賞を受賞。95年、阪神・淡路大震災復興支援のため「美し都~がんばろや We love KOBE~」をリリース。01年12月、乳がんの手術を公表し音楽活動休止。05年に神戸大使委嘱。24年にデビュー35周年を迎えた。