松竹ニュースター抜てきも葛藤の日々、5社協定の壁越えて仮面ライダーに
私は昭和40(1965)年に松竹映画で俳優デビューしました。当時、松竹の大スター女優であった桑野みゆきさんのお父さんにスカウトされましてね。洗車のバイトをしていた時に、桑野さんの車とは知らずに声をかけられて、お屋敷で書生みたいな生活が始まったんです。
近くにアパートを借りていただき、毎日2時間くらいかけて山の上にある屋敷の広い庭の掃除や水やりをして。犬2頭と池の鯉と畑の世話もし、松竹の研修所に通いながら女優の賀原夏子さん主宰のNLTという、三島由紀夫さんと縁のあった劇団でも学びました。
本格デビュー前に訓練のために出てみろということで、桑野さん主演の映画「その口紅が憎い」に出演。ホテルのボーイ役でした。セリフもあったのですが、ガタガタ震えてしゃべるどころではなく、もう緊張しちゃってね。映画に出たのはそれがほとんど初めての体験でしたから。
同年、安藤昇さんの俳優デビュー作「血と掟」にも出ました。プロデューサー的に企画したのが桑野さんのお父さんだった縁で。松竹は“女優王国”でしたけど、初めて“男の世界”を作ろうということで安藤さんが入ってこられたんです。
さらに竹脇無我さん、田村正和さんと私がニュースターとして加わります。竹脇さんと香山美子さんでダイナミック・カップル、田村さんと中村晃子さんでモズ・カップル、私と新藤恵美さんでチャーミング・カップル。女優との組み合わせて売り出されました。
「小さなスナック」や「落ち葉と口づけ」といった青春映画で主演もしたのですが、私はまだまだ未熟で不器用だと実感した。もっと違ったタイプの方向性はないのかといつも思っていました。そこで、恩ある人との出会いから他社のオーディションを受けることに。それが「仮面ライダー」だったんです。
当時は5社協定がありましてね。私は松竹と専属契約を結んでおり、仮面ライダーは東映のテレビ部とMBSの共同制作。松竹と東映との問題になったんですよ。東映の重役さんが松竹まで話し合いに行ってくださり、仮面ライダーに出られるようになったのです。それが、私の大きな転機となりました。