松下幸之助さんとの縁で仕事の幅が広がった
まったく世界が違う方なので、意外なつながりと思われるかもしれませんが、デビュー当初から「経営の神様」と称される日本を代表する実業家・松下幸之助さんには、大変お世話になりました。
私が所属していたレコード会社・ビクターが、松下さんの松下電器(現パナソニック)と資本関係にあったこともありますが、それ以前に、お仕事を通じてお世話になったのです。
私がデビューした1960(昭和35)年は、高度経済成長のまっただ中。庶民の暮らしも大きく変わり、夢だった白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電「三種の神器」が手に届くようになった時期です。
その当時、地方公演というと興行師さんが仕切るものと、商店会の売り出しに伴う花興行、いわゆる売り上げに貢献するショーがありました。そのショーの主なるものは家電を扱うナショナル(松下電器=パナソニック)が企画していました。
同時期に、松下さんとお会いしたのですが、第一印象は“すごい人”でした。緊張して、あいさつ程度の会話しかできませんでした。その後、松下さんに「商店会の人が頑張って売り出しをやっている。橋さんも協力してほしい」と言っていただき、「ぜひ!」ということで、東北の商店会を回りました。
それからというもの、大阪の新歌舞伎座で長期の公演を行う時は、いつも秘書室長さんが中日(なかび)にご祝儀を持ってあいさつに来ていただいて。私も公演が終わると、大阪の門真市にある本社へ出向き、松下さんにあいさつしてから帰京していました。松下さんとの縁からも、仕事の幅が広がっていきました。
また興行師さんの公演でいえば、61(昭和36)年3月に初めての劇場公演のワンマンステージを東京・浅草の国際劇場で開催できました。1週間の公演でしたが、これが大当たりしたことで、僕の公演を全国の興行師さんが買いに来てくれた。最初に地方の公演をやったのは、名古屋の愛知県体育館でした。