大橋純子さんとヤマハ梁山泊(前編)
◆「シンプル・ラブ」「たそがれマイ・ラブ」「シルエット・ロマンス」などのヒット曲で知られる歌手の大橋純子は、林とは70年代半ば、ヤマハ音楽振興会時代からの旧友だ。当時のヤマハには他にも、いずれも日本を代表するアレンジャーとなる萩田光雄、船山基紀、新川博、オフコースに加入する鈴木康博ら後に日本のポップスをけん引するメンバーが集っていた。
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ヤマハにいたアマチュア時代、レコード会社の知人の届け物を持ってきてくれたのが大橋純子さんとの初対面でした。私は全くレコード会社の人だと信じ込んでいたんです。ところが、私が3カ月ほどのヨーロッパ渡航から帰ってくると、ヤマハで歌っている彼女の姿を認めました。そこで彼女が歌手だったんだと分かりました。
さらに驚いたのは歌唱力。何度か歌う場面に接し、声質、表現力に圧倒されました。もうアマチュアの領域ではないのです。プロをもしのぐ、艶やかな高音の伸びは輝かしい将来を予感させました。それほどの逸材でしたから、すぐに噂は広まりフォノグラムからのデビューが決まったんです。その頃まわりにいたのが私や、その後公私ともにパートナーとなる作曲家の佐藤健氏や、一風堂の土屋昌巳氏です。そういった仲間たちが曲を書いたり、美乃家セントラルステーションというバンドとしてサポートしたりました。
大橋さんは私たちの出世頭として「デビューを飾った」という感じでした。次々にヒット曲を出してスターダムに入っていくという感じでしたから、私たちの羨望の的であったと同時に、ポップスを歌うアーティストへの作品提供の場を得たのでした。
その頃のヒットチャートの主流は歌謡曲中心でしたから、もうちょっと音楽性のあるポップスをやりたいと思ってプロを目指した人たち、予備軍みたいな集団が身を置くには、当時のヤマハはすごく良かった。類は友を呼ぶ-といった感じでみんなそこに集まってきました。希望を抱えている人たちの集まりでした。
制作集団といったところがあって、そこに行ったら必ずと言っていいほど誰彼なしに音楽の話が始まり、楽器があればセッションになる-そういう環境がありました。やることさえやっていれば文句を言う人はいません。それこそ本当に梁山泊という感じでした。
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林哲司(はやし・てつじ)1949年8月29日生まれ、静岡県出身。持ち前の洋楽センスで「悲しい色やね」「悲しみがとまらない」「北ウイング」など多くのヒット曲を作曲。2015年、アルバム「Touch the Sun」発表。