市川笑也
国立劇場の養成所出身ながら、その実力が認められ三代目市川猿之助(現・猿翁)の部屋子となった市川笑也。圧倒的な美貌と透き通るような声、そして透明感のある確かな演技でスーパー歌舞伎でヒロインに抜擢され、一躍人気女方となった。『華果西遊記』の三蔵法師や『矢の根』の曽我十郎など、気品ある二枚目も評価されている。3月の大阪松竹座のスーパー歌舞伎II(セカンド)『ワンピース』ではニコ・ロビンとマリーゴールドの二役を演じ、歌舞伎ファンのみならず原作ファンにも好評を得ている。
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『ワンピース』には本当に驚かされます。これまでの常識を打ち破り、プロジェクション・マッピングを使ったりと、従来の歌舞伎に新しいものをどんどん加えている。お子様から年配の方まで、楽しんでいただける作品です。最初は怪訝な顔をしていた方も、最後はのめり込むようにしてご覧になっている。原作の持つ力もあり、これまで歌舞伎をご覧になっていらっしゃらない方も劇場に足を運んで下さっています。
私はニコ・ロビンとマリーゴールドの2役をさせていただいています。ニコ・ロビンは完コピとまではいきませんが、かなり近づけたつもりです。マリーゴールドは原作では力士のような体型ですが、今回は非常にグラマラス!ボンッキュッボンになっています(笑い)。
同じスーパー歌舞伎でも、師匠(猿翁)と四代目(当代猿之助)の作り方は違いますね。師匠は若いころ映画監督になりたかったそうですので、フィルムカットされるようにビジュアル的に作られる。
四代目は頭の中に完璧な設計図があって、そのアイデアだったり芝居を私たちに教えて下さいます。だから自分の場面以外の所は、出演者でありながら、観客の皆様と同じように驚くことが多々あります。
私は青森出身ですから、養成所(国立劇場歌舞伎俳優養成所)に入るまで歌舞伎のことはほとんど知らなかったんです。それでも日本の伝統美にとても興味があったので、養成所に入所いたしました。
実は、師匠に入門してからの数年間は、数カ月ごとに「辞めたい」と思う時期がありました。女方というか演じることが恥ずかしかったんですね。4年目に「答えを出したいから3カ月休みを下さい」と申し出たんです。いま考えると、とんでもないことですよね…。
お休みをいただいて2カ月たった頃、師匠が『黒塚』をなさっていたので、見に行ったんです。いつもは舞台袖で見ている作品ですが、観客として、客席から見たら「スゲー、これ!」という感想しかなかった。やっぱり歌舞伎に戻ろうと、すぐに師匠のもとにうかがいました。すると師匠は「迷いの雲は晴れたかい?」と一言。『黒塚』のセリフにかけておっしゃられた。本来なら休みを申し出たその場で「クビ」を言い渡されてもいいくらいのこと。師匠の懐の大きさと深さを感じました。
お姫様に抜擢されるまでは、いろんな役をやりました。虎の足や馬の足もやりました。『小栗判官』で暴れ馬が襖を飛び越える方法を編み出したのが、実は私なんですよ。(藤間)紫先生にもいろいろ教わりました。先生は女優ですが、もともとは歌舞伎の女方に教わっていらっしゃった。だから女方のこともよくわかってらっしゃって、ワンポイントで注意して下さり、わかりやすかったですね。師匠に「色気が足りない」と言われて、銀座のナンバーワンの方の仕草を学んだこともありました。
(大抜擢された)『オグリ』の照手姫のときにも紫先生が手取り足取り、ほぼ100%教わりました。セリフの意味、目線の位置…教えていただいたこと全てが財産ですね。『新・三国志』のときに、師匠から「あんたのセリフ、僕の胸にくるようになったよ」って。うれしかったですね。僕が「うまい役者というのが、やっとわかるようになってきました。自分のセリフが、相手のセリフを呼び起こせる役者ですよね」と言うと、うんうんと頷いたかと思うと「(ここまでに)何年たってるんだよ!」と叱られました(笑い)。たぶん、一門で私が一番叱られているんじゃないかな。叱りやすいというか、叱られても食らいついていくタイプだからでしょうね。
師匠には「役者は人なりだよ。人間がよくならないと、役者はよくならないよ」と教えられました。
四代目とは『四の切』でご一緒させていただいたときに驚きました。声などもそうですが、気持ちの持っていき方が師匠そっくり。“血”を感じましたね。歌舞伎に対する情熱がお二人ともすごい。
公演に前に師匠に仕上がりを見ていただくことがあるんですが、そのとき「初心忘れるべからず」と書いて、私を指さされた。歌舞伎役者の道はまだまだ続きます。他にも娯楽はあるのに、わざわざ歌舞伎を見に足を運んで下さるお客様に喜んでいただけるよう、3月公演も勤めさせていただきたいと思います。
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市川笑也(いちかわ・えみや)1959年4月14日生まれ。澤瀉屋。80年3月国立劇場第5期歌舞伎俳優研修修了。同年4月国立劇場小劇場『絵本合法衢』の中間で泉山太男の名で初舞台。81年2月市川猿之助(現・猿翁)の門下となり、二代目市川笑也を名のる。90年2月猿之助の部屋子となる。98年7月歌舞伎座『義経千本桜』鳥居前の静御前で名題昇進。