浜村淳 東京進出も関西弁嫌がられ挫折…しゃべくり稼業幕開けから現在まで(上)

 話術の達人こと、映画評論家でパーソナリティーの浜村淳氏(83)は同志社大学卒業後の1957年、東京でプロとして活動を開始し、60年を超えるしゃべくり稼業が幕を開けた。まだ東京では関西弁が広く受け入れられていなかった初期の苦労。関西に戻り吉本興業にスカウトされた際の、物議を醸しそうなギャラ事情。大阪と東京で生番組をハシゴし、おニャン子クラブと共演した時代まで、ノンストップで語りまくった。(上)(下)で。以下は(上)。

 (浜村氏は大学在学中にアルバイト司会していた京都のジャズ喫茶で、渡辺プロダクションの渡辺晋社長にスカウトされ、卒業後に東京へ。会社員の初任給が1万円そこそこの時代に、月給は6万円だったと明かす)

 「これは居心地がいいというので5、6年おりましたが、やっぱりね、東京は難しかったです。まず関西弁を嫌がられる。今は芸人さんは大阪弁丸出しでやってますが、当時は大阪の笑いもなかなか理解されない時代でしたね。言葉は東京に合わせてやってました」

 -今とは全く環境が違いますね。

 「ザ・ピーナッツの売り出しの頃で、ショーの司会で全国を回りました。ミッキー・カーチスがお笑い好きでね、よく2人でジャズ喫茶に出て素人漫才みたいなこともしました。関西風のギャグ入れて。今もミッキーとよく会いますが『よう昔、漫才みたいなことやったなあ』となつかしがってくれますね」

 -仕事は多かったのですか。

 「やはり何事も東京が中心。いい話もたくさんありました。機会が本当に多かった。テレビも始まってましたしね。正直あのまま東京にいたら、もうちょっと何とかなってたかなとも思うんですが」

 -関西に戻った経緯は。

 「言葉のこともひとつですし、私は一人っ子なんで、親がものすごい嫌がって『帰って来い、帰って来い』の連続で、ついに帰ってきてしもたんです」

 -すぐに関西で仕事はあったのですか。

 「仕事はラジオ大阪の1本だけ。ところが毎回ゲストの芸人さんを連れてきてたのが、後に吉本興業の会長になる中邨秀雄さんで『あんた、いっそ吉本来るか』『いきますわ』となったんです」

 -すごい縁ですね。

 「いい仕事たくさんくれたんですよ。営業に結婚式の司会とか、ずいぶん忙しかったです。中邨さんの上司だった八田竹男さん(後の社長)に『金のことは言うなよ、金は吉本に任しとけ、金のこと言うたら芸が汚うなるよ』と言われたのを今でも覚えてますわ」

 -吉本芸人さんのネタかと思ってましたが、吉本の方は本当にそう言うんですね。

 「よく吉本の芸人さんは『吉本は稼ぎのほとんどを取りよる』とか言いはりますが、私の場合はそれはなかった。ずいぶんくれましたですね。吉本には1割くらいしか取られなかったと思いますよ」

 -定説では、吉本に9割取られることがネタになってます。

 「そうなんです。僕の話を言っても、ほかの芸人さんは信用しないですね。しかし9割取られるとは、ひどいなあ(笑)。でもね、これはお笑いの世界をやめたきっかけなんですが、ある時、中邨さんが言うんです。『わし、きょう珍しい漫談を聞いたんや。客がいっぺんも笑わんのや』と。誰の話ですかと聞いたら『お前やないか』とね」

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