新藤兼人監督と丸顔の女優
いつの間にか私の人間年齢を簡単に追い越した我が家の老猫2匹。「老いる」ことの神秘的な美しさを日々、教えてくれます。そして10代でお会いした巨匠監督、市川崑監督や新藤兼人監督には「老い」と反比例するように生まれる凄(すご)味を教わりました。
1981年の春、TBS系ドラマ「3年B組金八先生」が終了しました。学校には「金八先生が終わったら芸能活動をやめます」との約束のうえで出演を決めていました。芸能活動を続けるのであれば高校に進学できないという状況の中、放送後の余韻に浸りながらも学業に専念。しかし半年後には女優業に復帰したいという思いを抑えられず、通信教育に切り代えて芸能活動を再開させました。
社会現象にまでなった「金八先生」の放送中は「金八の子」として広く認識されていましたが、いざ「川上麻衣子」としての知名度を上げようとしても金八先生での印象が強すぎて、難しかったことが思い出されます。
女優としての復帰作が、市川崑監督の映画「幸福」(81年)でした。妊娠中絶後、河原で苦しみながら死んでいく少女という難しい役柄でした。金八先生の優等生役のイメージから一転、市川監督に「出産の痛みだ!出産の痛みだ!」と何度も何度も怒鳴られ、NGが繰り返される中、草むらで虫に刺されながらの格闘でした。
その後、17歳で新藤兼人監督に出会い、「地平線」(83年)に出演。その後も「ブラックボード」(86年)、「三文役者」(2000年)、「石内尋常高等小学校 花は散れども」(08年)、遺作の「一枚のはがき」(11年)まで計5本の映画と、監督が初めて演出された舞台「午後の遺言状」に出演させていただきました。
柄本明さんの妻役で出させていただいた「石内-」の現場では、最初車いすに座られていた新藤監督が最後にはご自分の足で山を登られるなど、仕事がもたらすエネルギーを目の当たりにしました。「一枚-」で賞を取られ、100歳の誕生日を迎えた翌月の12年5月に亡くなられましたが、最後にお会いした4月のパーティーでのこと。先生はしっかりした声で「はい、みなさん、さようなら」と、ちゃめっ気たっぷりにご挨拶されました。
新藤監督は「とにかく、仕事をしなさい。そして女は丸くなきゃダメだ」というのが持論。田中絹代さんなど丸顔の方を好まれたようです。本来は私にとってコンプレックスである丸顔が幸いし、監督のパートナーである乙羽信子さんとは、監督が脚本を書かれたテレビの2時間ドラマでたくさんの母娘役をさせていただきました。乙羽さんは結婚されても新藤監督を「先生」と呼んでいらして、いつも憧れを持って語ってくださったことをよく覚えています。
新藤監督や市川監督の現場では、撮影の準備を整えていながら、天気待ちに3日間を費やすことも珍しくなく、何もしないでずっと太陽を待っていた時間が懐かしいです。良き時代の、何物にも代え難い経験です。