日韓映画人を前にキム監督が感無量
西島秀俊主演の日韓合作映画『ゲノムハザード ある天才科学者の5日間』が公開初日を迎えた1月24日夜、都内でキム・ソンス監督を囲む会が行われた。
集まったのは、本プロジェクトを成功させるために日韓の架け橋となった映画人たち。キム監督は感無量の面持ちであいさつした。「作品についてはいろいろご批判もあるかと思いますが(苦笑)、日韓一緒になって作り上げた事を評価して頂きたい」。
公開までの道程は長かった。本作品の原作は、作家・司城志朗が1998年に発表した同名小説。記憶を“上書き”されていた事が発覚した主人公が、真相を追及していくサスペンス劇だ。小説にほれ込んだキム監督は早速、日韓合作での可能性を探って行動を移す。国際共同製作を数多く手がけている日本のプロデューサー宛に、協力を仰ぐ手紙をしたためたこともあったという。
実現の可能性が見えてきたのは2011年のこと。東京国際映画祭に併設されている企画マーケットに参加したことで、日本側の出資企業が見つかった。12年には、文化庁が映画による国際文化交流の推進と国内の映画産業の振興を目的に11年にスタートした「国際共同製作映画支援事業」に採択され、5000万円の文化芸術振興費補助金が投入されることとなった。つまり、我々の税金だ。
そしてようやく12年7月にクランクインに漕ぎ着けた。だが時は竹島の領土問題を巡って日韓関係がこじれ、東京・大久保などではヘイトスピーチVS反ヘイトスピーチが衝突するイヤなムードが流れていた。キム監督は「私たち日韓スタッフによる撮影はトラブルもなく実にスムーズでした。かたや怒号が飛び交っていた町があったというのに」と撮影を振り返る。
日頃、映画を通して海外に出てみると、政情や歴史とは関係なく、草の根の文化交流の力強さを実感する。事実、筆者がはじめて韓国の地を踏んだのは94年。三國連太郎主演『三たびの海峡』の釜山ロケの同行取材だった。韓国の日本大衆文化の開放が開始されたのは98年の金大中政権の時だから、それよりも4年も早い。当時はまだ韓国映画界は夜明け前で、撮影に参加した韓国人スタッフが、照明技術などを一生懸命に、日本人スタッフから教わっていたのが印象的だった。
また、欧州の映画祭へ行くと、韓国のみならず中国や台湾などアジア人の結束力がさらに固まる。イタリアのベネチア国際映画祭が開催されるリド島には、アジア料理の店は中国料理店1軒のみ。おのずと自国の味に飢えたアジア映画人の溜まり場となる。今や世界的な巨匠となったキム・ギドク監督と何度酒を飲み交わしたことか。
スペイン・サンセバスチャン国際映画祭では、アジアから参加している記者はほぼ1人か2人ぐらい。すると韓国の映画産業を支援を行っている公的機関・国際映像振興院(KOFIC)が毎回、映画祭に参加中の韓国監督との会食に招待してくれるのだ。そこで『スノーピアサー』(2月7日)でハリウッド進出したポン・ジュノ監督や、同じくアーノルド・シュワルツェネッガー主演『ラストスタンド』を手掛けたキム・ジウン監督らと交流を深めることができた。映画という共通言語があれば国籍の壁は簡単に超えられる。もちろんこれは筆者に限ったことでなく、多くの映画人が体験していることだろう。
ちなみに、この夜のキム監督を囲む会を主催したのもKOFICで、『ゲノムハザード‐』を企画段階からサポートし、先の企画マーケットへの出展を後押した。現在も数本の日韓合作企画を支援しているという。合作映画は市場が拡大するだけでなく、共に仕事をすることで互いの歴史や文化を知るきっかけにもなる。過去は変えることはできないが、こうして新たな歴史を築くことはできるのだ。『ゲノムハザード‐』は、今度は3月に韓国で公開される。その時にまた、日韓交流が育まれることを期待したい。(映画ジャーナリスト・中山治美)