カンボジアの巨匠リティ・パン監督来日
先ごろ、カンボジアの巨匠リティ・パン監督(※「パニュ」と表記されるが、今回は本人の希望で「パン」に)が国際交流基金アジアセンターが行っている「アジア・文化人招へい」プログラムの一貫として来日し、東京や京都で講演会などを行った。
と言っても、日本ではなかなか馴染みのない監督かもしれない。でもパン監督の経歴を聞いたら、衝撃を受けるに違いない。1964年にプノンペンで生まれた。「クメール・ルージュ」(カンボジア共産党)によって強制労働キャンプに入れられて青春時代を奪われただけでなく、飢餓や過労によって母親や親戚の命まで奪われた。79年に逃亡し、タイを経由してフランスへ移住。フランス高等映画学院で映画を学び、ドキュメンタリー作家として現在に至る。
そして長年追究しているのは、そのカンボジアの失われた時代のこと。かつての政治犯収容所「S21」に、クメール・ルージュの大量虐殺を行った加害者と被害者を集めて当時の出来事を再現・証言するドキュメンタリー映画『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を2002年に発表。今、話題のインドネシアの大量虐殺事件の真実を暴いた『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』(7月4日公開)のジョシュア・オッペンハイマー監督は、パン監督のこの作品に影響を受けたと言われている。
また13年に発表した『消えた画 クメール・ルージュの真実』は、自身の体験を土から作った人形たちで再現。当時の記録映像などはもちろん、個人の写真も全部クメール・ルージュに没収・破棄された為の苦肉の策なのだが、そうまでして辛い過去でもあり、家族と過ごした唯一の時間を紡ぐような作業はどんな思いだったのか?
パン監督の心情を察すると胸が苦しくて、冒頭から最後まで泣きっぱなしで見た忘れられない作品である。ちなみに同作はカンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリ、米アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。
その監督がなぜ来日したのか?実は講演だけではない。クメール・ルージュ時代の映像資料が日本に残っていないか?調査も兼ねての来日だった。パン監督は06年にカンボジアの視聴覚資料を収集・公開する「バポナ視聴覚リソースセンター」を設立して代表を務めている。日本でも、クメール・ルージュ時代のカンボジアを取材した報道機関やフリーのカメラマンなどの手元に映像資料が残っていると聞き、同センターへの資料提供を呼びかけにきたのだ。
ただし、そこから当時のフィルムをデジタル化し、保存するには問題山積み。まだ同センターにはフィルムからデジタルに変換する機材もなければ、技術者もまだいないのだという。その為には膨大な資金も必要だ。自ら広告塔となって、同センターへの協力を募っている。
戦争などで当時の記録が消失したという例は我が国でもある。昔は現在のようにフィルムの管理に対する意識が低く、保存状態が劣悪でお宝をみすみすダメにしてしまった事も多かったようだ。だが意図的に、誰かの手によって処分されたというのは納得いかない。パン監督しかり、今年に入って同様の思いを抱えた人たちの作品を立て続けに見たこともあり、ずっと歯がゆい思いが引っかかっている。
イタリア・ウディネ・ファーイート映画祭でブラック・ドラゴン観客賞(寄付会員による賞)を受賞したのは、パン監督と同じく、カンボジア出身の女性監督ソト・クォーリーカーの『遺されたフィルム』。昨年の東京国際映画祭アジアの未来部門でも評判を読んだ作品だ。ヒロインが、フィルムの最終巻だけがない母親主演の娯楽映画を発見。ラストシーンを自分たちの手で再現し、1本の作品として完成させようとこ試みる。その過程で、クメール・ルージュによって迫害されたその作品の監督や、秘められた家族の過去も明らかになるという作品だった。
また、今年の大阪アジアン映画祭で上映された『ガルーダ・パワー』(14年)は、インドネシアのアクション映画史を追ったドキュメンタリー。世界各国の人気映画をパクりまくっていたのだが、一時期、香港アクションチームを招いて本場のカンフー映画を作ったことも。それがインドネシアの大虐殺事件で起こった反共弾圧の際、中華民族=共産主義者というレッテルを貼られた為に、その映画までもが処分の対象になったという悲しき歴史が描かれていた。
娯楽映画だろうが、映像には、当時の文化や風習も写っており、それは貴重な遺産となる。デジタル化時代で何でも気軽に記録できる今、その重要性はなかなか認識できないかもしれない。大概が、失ってから事の重大さに気づくものだ。失われたフィルムに思いを馳せている人たちに触れて、なお一層、映像遺産をどのように保全し、今後に生かしていくべきなのか。そんな事を考える日々である。(映画ジャーナリスト・中山治美)